むかし昔のそのむかし、上宝井と下宝井の中間付近に「金箔・銀箔を湧きだす井」があったそうです。この井の話を聞いて、ヤマトタケルも東征の帰りに当地を訪れ前号の「田原のはなし」が生まれたのかも知れません。
「金箔・銀箔を湧き出す井」があったならまさに宝の井です。さぞ豊かな地域だったでしょう。上流域に頭なしと呼ばれる湧水地があるので「宝の井」も湧水地だったかも。残念ながら、洪水で埋没したのか、現在は残っていません。
明治の初め広表新田村と下田原新々田村が一緒になって生まれた「大字宝井」。「宝の井」の言伝えから付けた名だそうです。、また、和名招の下野国河内郡十一郷の一つ財部号郷。秋田城跡から出土した木簡にこの郷と比定される記述がある。
「宝の井」の言伝えから財部郷は、宝井地域であったと考えたい。宝井のはなしは、湧泉説話による地名起源説話に分類されます。
広報かわち 2005年11月号より