むかし昔、遠く奥州陸奥の地で乱が起こり、この乱を静めるため源義家を鎮主府将軍とする都からの軍が当地を通ったとか。後三年の役というこの乱にさかのぼること30余年前の前九年の役の時は、父の源頼義に連られていた義家であったが、その時当地を通ったかはわからない。源義家の別称八幡太郎義家から宇都宮で戦勝祈願した地に八幡山の名が付いたとか。
八幡山から北上して現在の大字下田原の琴平神社東側山裾で馬を休めた折、義家の愛馬がヨシの葉の片側ばかりを食べてしまったので、なぜか片葉のヨシとなり以来幾多の歳月が流れても、そのヨシの子孫はいまだに片葉のままだとか。
下田原を発っして逆面で宿営。その時野営した原っぱが「八幡原」で上田原・逆面境に地名として残っている。翌日逆さ井戸付近を通り高松から塩谷へと抜けたのが「義家街道」の名で残ったとか。今も見られる片葉のヨシを訪ねて見ては。
広報かわち 2006年1月号より