九郷半用水の分水堰
九郷半用水は西鬼怒川より分水し、灌漑(かんがい)用水の不足を充足させながら、途中石井川用水と合流し、更に下流の田畑を潤している一大用水です。恩恵を受ける郷村は、いわゆる九郷半に及び広大な流域です。
用水の開かれた時代は文禄年間(1592〜1595)に於て、上河内町西芦沼地内の西鬼怒川より堀幅9尺(2.7m)の構渠(こうきょ)を開削したとの言い伝えがあります。これにより恩恵を受ける範囲は、下ケ橋(さげはし)・白沢・上岡本・中岡本上組・中岡本下組・下岡本・上平出・中平出・下平出・石井の一部の九ヶ村半に及ぶ広般な地域に広がるもので、九郷半用水と呼ばれるようになりました。
寛文年間(1661〜1672)に堀の改修を行い、堰の修復も行われました。しかし享保8年(1723)8月10日の五十里洪水に際して、各河川は非常に氾濫し、被害も甚大でした。用水の取入口すら変更せざるを得なかった程で、その後も洪水の度に川幅も拡大されたりして、河床の荒れなども目立つようになりました。
然し、大正2年(1913)九郷半用水普通水利組合を組織するに至り、種々の修復工事が実施されるようになりました。
平成3年(1991)10月20日 第261号掲載
岡本あれこれ(39) 九郷半用水事業(2)
大正12年(1923)4月、「用排水幹線補助要項」が食糧局長通牒(つうちょう)によって発せられました。大規模な県営用排水改良事業に対し、例えば500ha以上の受益地をもつ事業には国が50%を補助する画期的なもので、本県では昭和20年(1945)までに約25事業が実施され、このうち逆木用水管内では4事業でした。
昭和8年度(1933)から2ヶ年にわたって実施された、九郷半用水幹線改良事業は、昭和初期の金融恐慌対策として打ち出された「時局匡救(きょうきゅう)土木事業」の一環として実施されたものです。
工事内容は幹線について、余水吐、浸透防止工、分水堰(6ヶ所)を設置し、さらに補給水工事を行うというものでした。この補給水工事は地下湧水を明暗渠(めいあんきょ)によって導水補給するもので、2つの導水路を完成させ、毎秒1.12m3の水量を確保しました。以上は九郷用水改良事業に関係したもので、この時に、次の表の様な河川改良工事も行なわれていました。
平成3年(1991)11月20日 第262号掲載
岡本あれこれ(40) 九郷半用水事業(3)
九郷半用水改良記念碑
国道四号線の鬼怒川橋に近い南側に、九郷半用水改良記念碑があります。碑の表には
「九郷半川用水改良記念碑 栃木県知事 萱場軍蔵書」
と大書され、裏面には
起工昭和8年4月1日
事業担当者
組合会議員 柏屋倉幸作
耕地課長 地方技師 山元昇 武田三四郎 猪瀬喜一郎
事務所長杤木県農林技手 長山粂三 釜井佐市
古橋源一郎
竣工昭和10年3月21日
事業関係者
永見亀松 南木軍太郎
九郷半用水普通水利組合 南木鬼子一 高橋忠吉
管理者地方事業者 菊池幸作 吉田平次郎工事請負人
会計事務員栃木県属 佐藤利三郎 須藤久次郎
阿久津辰次郎
書記 高根沢長重 石原章一 福島 保
碑は、幅が75cm、高さ2.7m、花崗岩で出来ています。
以上の工事により、昭和8年(1933)より現在に至るまで、水飢饉(みずききん)的な弊害も少なく、農家を始めとする一般家庭にとっても、充分な水の恩恵に浴することの出来る生活が展開されていました。
今回は、文化財保護審議会委員の杉本武義氏の御協力を戴きました。
平成3年(1991)12月20日 第263号掲載