宿場
(広重の絵より)
江戸幕府が開かれると、大名の参勤交代が行われ、主な街道の宿場には、本陣・旅籠屋(はたごや)・問屋などが設けられ、大名の荷物を運ぶ人足や馬などもそろえられました。白沢宿も同様です。
奥州街道の各宿には25人の人足と25頭の馬を備えることになっていましたが、大名行列などの往来には、これだけでは不足するので、近くの村から農民や馬を借り受け、安価で使われました。この仕事にあたる人を助郷役(すけごうやく)といい、あてられた村を助郷村とよんでいます。
農事の忙しい最中に大名のお通りと言ってはいやおうなしに、この仕事が割り当てられることは、農家にとって非常に苦しいことでもありました。
この助郷制度も、古文書と一部研究者の間に知られるぐらいで、白沢宿の人はもちろん、近村の人も、知る人は少なくなりました。
(つづく)
昭和59年(1984)3月20日 第170号掲載
白沢宿今昔(28) 助郷と雲助(2)
働く農民(江戸時代)
白沢宿本陣、宇加地家の、「文政11年(1828)3月、奥州道中、白沢宿助郷帳」によると、
白沢宿助郷高
一、高 1万6840石2斗2升8合4勺
助郷 31か村 野州河内郡
中岡本村 同村下組
下岡本村 柳原村
上平出村
下平出村(遠村に付半割高)
石井村 (上同)
中阿久津村 宝積寺村
海道新田 岩本村
上川俣村 大塚新田
新々田村 下田原村
上田原村 相野沢新田
広表新田 古新田
長峰新田 土手下新田
上台新田(旧羽黒)
芦沼村(鬼怒川出水之節中継役致に付、宿詰不割当)
下ケ橋村(上同断)
金田村(遠村に付半割高)
冬室村(上同断)
関白村(上同断)
宮山田村(上同断)
野州芳賀郡
板戸村
竹之下村(遠村に付半高割)
さ山村 (上同断)
(つづく)
昭和59年(1984)4月20日 第171号掲載
白沢宿今昔(29) 助郷と雲助(3)
助郷勤め風景(町誌より)
万延元年(1860)4月には、代助郷村が野州芳賀郡中心に申し付けられています。
大名行列の往来に際しては、普通の割当の助郷の人馬では不足になるので、さらに5〜10里(1里約4km)の村から助人・馬を出すことになりましたから、遠方の村は前後3日を要することになり、農繁期にはいかに苦しかったかが察せられます。やむなくお金を代納して役を逃れることにしました。
宿場の係はこの代納金を元に人足を雇入れ助郷の仕事をさせました。
この人足の中には、雲助と呼ばれる人たちもいました。
雲助たちは、いつも宿場のうら通りでたむろし、ひまな時にはいつも酒を飲み、博打(ばくち)などをしていたそうです。
(つづく)
昭和59年(1984)5月20日 第172号掲載
白沢宿今昔(30) 助郷と雲助(4)
人馬継立(広重の絵より)
助郷の代役として、活躍するようになった雲助たちは、白沢宿にも住んでいました。
文学博士、大島延次郎氏はその著「日本近世交通史」によると雲助とは「浮雲の行方定めなきが如く、かれらの住所も定まらず、きまりたる所に留まらないで、荷物の運搬の仕事に携(たずさ)わったため」とされています。
また、かれらの生活については「これらの男たち、肩にしびねおこり、股によこねというもののあとあり。肩にかけた手拭と褌、共に黄昏の色に通じ、顔と体は赤く巳の時の色に同じく、髪は獅子の頭に、手足は松の木の如く、年は23.4より40歳あまりなるもあり、夏冬おおかた裸にて、冬とくに寒くなりては、通称ぼつこというものをつけ、飯はどんぶりに盛りたるものを食い、酒は茶碗に注ぎて飲み、博打に勝てば小屋にあり、負ければ役に出る。かれらは、特に理想を求めず、金を得れば酒を飲み、博打(ばくち)を好み、過す。」とあります。
雲助は道中筋において悪党人とならび、雲助・ゴマノハイ等の取締りの古文書も白沢宿に見られます。
昭和59年(1984)6月20日 第173号掲載