供養碑
和久(わぐ)地内の東野バス終点から眺められる内川の岸に「南無阿弥陀仏」の供養碑が建っています。この書は大原妙哲尼という尼僧が書いたもので、雲水行脚(うんすいあんぎゃ)の折、和久の專光院に寝起きし修行されたが、この尼僧に接した村人がその徳を偲んで建立(こんりゅう)したものであります。
妙哲尼は、和歌山藩士大原氏の長女として生まれ、幼少の頃から信仰深く7歳で出家し、18歳で髪をそり、諸国行脚して芳賀郡(市貝町)市 塙(いちはな) に住むようになりました、その間4〜5年の間に数千人の信者ができ、尼僧のために観音堂が再建され妙哲庵・持蔵寺が次々と建立されて行きました。これを見てもいかに徳の高い尼僧であったかが想像されます。
村の古老の話によると尼僧はふくよかな面差しで誠に美しい人であったといいます。
日常は真岡木綿の法衣(ほうい)をまとい「そばがきうどん」という質素な食生活で日夜勤めに励み、夜はふとんにもたれて仮眠するだけだったといいます。
明治40年(1907)尼僧が亡くなったとき、参列されたという人も早や80歳を過ぎ、尼僧のことも記憶の中から消えようとしています。しかし、草深い路傍(ろぼう)に立つ六字の名号は、今も尼僧の衆生済度の情熱を語りかけています。
(台岡本 高橋正記)