下組の天祭彫刻の一部
下組の祭り
下組の天祭の起こりについては、はっきりしませんが江戸時代の庄屋渡辺家の御用日記によると、当地の琴平神社の祭礼の付属的な行事として、神前の広場で数年置きに若者衆の祭りが文化年間(1804〜1818)から宇都宮藩の許可を得て行われたようです。
一般に農村の祭りは五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈願するものが多いが、下組の天祭は村人の安全すなわち自然災害の防止と無病息災を祈願するため行なわれました。また、この行事には、女性は一切参加できないことになっています。
数年置きに一度しか実施できなかった理由には、江戸時代における下組の世帯数は35戸と少なく、各家の負担が重く毎年実施することが困難のようでした。
明治になってから人口も増加し生活も安定したので毎年実施するようになりました。
天棚の2階には「天照皇大神」の掛軸と御神体(ごしんたい)の鏡を供え、ほかに88の神を祭ります。
また周囲の彫刻は見事なもので、これらの材料については村内に繁茂(はんも)した柳の大木で製作したと伝えられ、現在でも大柳の地名が残っています。これらの資料については、地元渡辺康之助さんから提供を受けました。
(つづく)
昭和54年(1979)4月20日 第111号掲載