岡本刑部遺跡(和久)
岡本城の北右手方向、和久(わぐ)自治会南端部あたりに、ちょっとした杉木立が見えます。その付近を岡本刑部屋敷(おかもとびょうぶやしき)の跡だと伝え、その中にあるお稲荷(いなり)さまを、お城稲荷と呼んでいます。岡本刑部は、岡本信濃守富高の支援であろうと言われています。岡本城と共にいつ頃造られたかよくわかっていません。
岡本信濃守富高は芳賀氏の出で南北朝時代に活躍した人であったことは実証されています。
岡本刑部という人はよくわかっていません。芳賀建高(刑部大輔右馬允)ではないか、という人がありましたが、不明です。
つまり歴史を語るには、伝承であっても資料の精査(せいさ)を必要とします。現在のところはお城稲荷について話しを進めたいと思います。
平成2年(1990)1月20日 第240号掲載
岡本あれこれ(18) 岡本刑部遺跡のお城稲荷(2)
「正一位稲荷大明神の神霊」文書
(岡本氏所蔵)
和久(わぐ)の岡本寿様宅には、この稲荷神社が「正一位稲荷大明神」の位を許された旨(むね)の文書が保存されています。
今般依願
下野国河内郡中岡
本村岡本勝右衛門
敷地在之稲荷鎮守江
奉勸遷
正一位稲荷大明神之神璽之間
永世無怠慢於令尊信者
家門繁榮子孫永久幸
神祇官統領神祇伯王殿
(1838年)
天保9年4月13日 公文所(印)
願主岡本勝右衛門
これは、願主が京都伏見稲荷へ願い出るに際して、神祇官(しんぎかん)統領であった白川家へ届け出た写しと思われます。
平成2年(1990)2月20日 第241号掲載
岡本あれこれ(19) 岡本刑部遺跡のお城稲荷(3)
御供料の証文(岡本氏所蔵)
前月号の神霊を受けるには少なからぬお金がかかりました。岡本家にその証文が保存されていますのでご紹介します。
証
一、金弐百疋 外ニ銀壱朱
御供料
右者造ニ令収納候也
白川殿
成4月13日 御役所(印)
岡本勝右衛門殿
当時の金一両は、4分の重さの金を言いました。更(さら)にその4分の1の金を一朱と称しています。御供料(おそなえりょう)の銀一朱は、一分金の4倍の銀量で納めることになります。
江戸時代後期には、物価が急激に上昇し、金の値打ちも景気によって変動し、幕府も経済政策には苦労していました。
岡本刑部遺跡(おかもとぎょうぶいせき)は昭和の年代まで形も変らず残っていたようで、お稲荷様の御神木(ごしんぼく)だった杉の木は、枯れてしまいましたが、数百年以上を経た太さでした。
刑部遺跡とその周辺にはまだまだ研究すべき意味あいが残されているようにも感じられました。
平成2年(1990)3月20日 第242号掲載