菊地知良の追号をとってつけられたという東岡本の東海神社
昔、東岡本は鬼怒川の流れの中にありました。
上申内(ざるうち)境に「オリツト」また、根古屋(ねごや)境に「コメツンバ」とよばれる地名のあることでもわかります。
この両地点は、石土堤(どて)でつながり、上は和久(わぐ)境、下は国道下まで名ごりを留めています。
長い年月に川幅はせばまり、河原だった所が享保(きょうほ)8年(1723)8月10日の五十里(いかり)洪水で土砂が積り、松林やヨシなどが生い茂りました。
江戸時代後期、宇都宮寺町の絹問屋菊地孝兵衛知良とその世継ぎ教中が親しかった、材木町の浄土真宗観専寺住職稲木黙雷と話し、宇都宮城主戸田侯に進言、この荒地を開墾(かいこん)することになりました。
近県・北陸・関西方面の浄土真宗檀家に呼びかけ、集まった20数名が観専寺に宿泊、8km余りの道を通い開拓の鍬(すき)を振いました。
当時を語る「駐馬塚の碑文案」(平山茂氏所蔵)の古文の中に「安政2年(1855)11月、開墾を初めたころは、一面にいばらが茂り、道をふさぎ、竹や樹木がむらがり容易なものでなかった。」とあります。
城主が検分にきて、教中に慰労の言葉を賜り、父知良は「佐孝様」と呼ばれました。以上が今日の美田をなす東岡本の初まりです。
(資料提供西尾清勝氏)