わすれられた西鬼怒川渡し跡
「川向こうには、嫁や婿(むこ)には行くな。親の死に目に会えぬ。」
洪水などにより何日も川止めがつづくと対岸との行き来は勿論(もちろん)、音信不通になってしまうからである。現在では信じがたい事実である。
明治30年(1897)2月に東北本線が開通すると、岡本駅-宝積寺駅間の汽車を利用するようになった。人によっては鬼怒川の鉄橋を、汽車の通らぬ時間を見計らって渡る冒険話もあった。
大正4年(1914)3月、国道四号線、鬼怒川橋の開通によってこれらの問題も一応解消した。
江戸時代における、鬼怒川の出水期には、川止めが2・3日〜数日にも及ぶこともあったという。奥州街道を通行する旅人は、両岸の宿場にあふれ旅籠(はたご)は満員となり、疲れをいやす人達は、日暮れになるとめし屋などに走り、小唄も聞こえ、ことのほかにぎわったそうです。
江戸に上る奥州仙台藩の伊達家のお姫さまや、お付の女達は西鬼怒の渡しを越すと、白沢宿上の仙台屋の二階の座敷にお休みになり、渡し場をふり返り、ほっとしたと言われている。
昭和60年(1985)5月20日 第184号掲載