現在の稚児ヶ坂
白沢地内に稚児ヶ坂(ちごがさか)・稚児ヶ墓(ちごがはか)と呼ぶ小字名があります。古文書に「建久年中(1190〜99)奥州筋公家あり、当地内街道坂にて稚児死す。以後これをあわれみ、この坂を稚児ヶ坂と改め、坂上に葬り供養仕り候」とあります。
宇都宮から白沢経由の奥州路は、平安時代末期ごろより利用されたようで、義経が下ケ橋(さげはし)に宿泊したことでも明らかです。
平安時代中期から末期にかけて、奥州平泉に華やかな生活を誇っていた奥州藤原氏も藤原秀衡の死後、その子泰衡は、28万の大軍を率いて奥州に攻め入った源頼朝によって滅ぼされました。
以後、鎌倉幕府から奥州惣奉行として文治5年(1189)葛西清重、ついで建久元年(1190)伊沢家景がその職に任ぜられました。この職は将軍に代わって陸奥国を取締る大切な役でした。
稚児ヶ坂でなくなったのは、伊沢家景の子と推定できます。現在の稚児ヶ坂は往時をしのぶ姿は何もなく、高崎三興製紙工場の建物が堂々と建っており、少し離れた稚児ヶ墓、白沢に地蔵堂と供養塔があります。