時は慶長5年(1600)6月、石田三成に内応して徳川の眼を北方に引きつけようと挙兵した会津の上杉景勝を討つべく大阪にあった徳川家康は鳥居元忠の一軍を残し、全軍を挙げて東上、7月先陣榊原式部太夫、伊井掃部頭、酒井左衛門尉等名だたる勇将が白沢表から鬼怒川の瀬を渡って松山・桜野・氏家・阿久津まで進出、更に家康の次男結城宰相秀康が白沢に着陣した。
この時陣場として眺望(ちょうぼう)のよい(宇加地家文書には「御陣場太郎左衛門裏の林其頃は林の木御座無く候由」とある)台上、今の白髭神社の南側(先年まで堀跡があったが今は切りくずして造成された)に丸太でやぐらを作り建てて砦とした。
この時、鬼怒川瀬渡りの案内をしたのが宇加地氏の先祖因幡父子であり(宇加地家文書)上岡本村の福田氏の先祖源太郎・左京之進(福田家文書)であった。
この時、徳川家康は小山に、秀忠は宇都宮に着陣したが、上方で石田三成の挙兵をきくや急きょ関西へとって返したが、上杉へのおさえとして結城秀康を宇都宮へ引き上げさせた。
その結果、関ヶ原合戦が行なわれ徳川軍の大勝利に終ったことは御承知の通りである。
戦後吉例として宇加地因幡が公儀へ願い出て往還馬次宿に仰せ付けられた。(宇加地家文書)
福田家文書によれば慶長10年(1605)公儀により源太郎が召し出され、種々調査の上往還と問屋のことを申し付けるといわれたので帰村の上、宇加地因幡と相談したとある。
とにかく白沢村・上岡本村だけでは小村で馬や人足に差し支えるので両村共同で白沢町いう名で馬次宿(うまつぎしゅく)になった。
正式に往還(おうかん)町割となったのは、慶長14年(1609)3月で、この時は公儀の役人や領主の奥平家の家老たちが町に出張して立ち会った。この時、上岡本村で福田家、白沢村で宇加地家が問屋を仰せ付けられた。
このように関ヶ原合戦後、徳川への協力ぶりが認められ白沢宿が成立したとみてもよいようである。
以後白沢宿は五街道の一つ奥州街道第一宿として整備され栄えたのである。
【註】
上岡本村は白髭神社の南側の地域で、現在の白沢南自治会が当時の上岡本村にあたっている。