江戸時代における、白沢宿の繁栄は鬼怒の渡しと深い関係があった。
昔より荒れ狂う鬼怒川の最も容易に渡れる所として、上阿久津-白沢間が知られている。
平安末期、伊豆に挙兵した兄、源頼朝を応援のため、奥州より馳せ参じた源義経一行、約200余騎も「喜連川を過ぎ、下ケ橋の宿に馬を休めぬ。」(義経記)とあるところから、この付近を渡ったであろう。また鎌倉時代にしばしば那須野ヶ原で巻き狩りが行なわれ、参加した鎌倉武士たちの渡河点となっていた。また、関ヶ原合戦前、上杉攻めの徳川軍先陣に、地元の宇加地・福田の両氏は「鬼怒の瀬渡りなど案内いたしました。」と古文書にあるのもこの地点である。
地図
江戸時代、参勤交代の奥州諸大名の通行上の一大難所ともなっていた。上阿久津の河岸問屋若目田家は、この河岸で諸大名の荷物を積んで江戸に送り大繁盛したと言われている。
明治、大正、昭和を通じ渡しとして利用されたが、昭和49年(1974)3月、阿久津大橋の開通と共に、この難所も終止符をうたれ、世の人より忘れ去られようとしている。
昭和60年(1985)2月20日 第181号掲載