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白沢宿今昔(63) 三奇談・七不思議(1)

里帰りした二十六夜さま

 白沢宿には昔から、珍しい出来事や、不思議な話が伝えられています。その中からいくつかを取りあげ掲載(けいさい)することにしました。

 

 昭和初期、宿の中を流れる川の水は、よく澄んで、住民の日常生活用水として利用していました。またフナ・ウナギ・スナサビ・ミヤコタナゴ・サワガニなどの生物も棲(す)んでいました。

 

 この澄んだ川底の水草の中に、米俵を小さくしたような石が現れ、なにか字が刻みつけられている様だが、誰一人として関心を持つ人もおりませんでした。

 

 ある日、信者も多く繁盛した宿内の女性祈祷師(きとうし)のことばから「あの川に沈む大きな石は、その昔小倉の里にあった二十六夜塔である。永い間、しばしばの鬼怒川の氾濫(はんらん)で、流れ流れここに埋れたもので、このままにして置くことは不吉を招く、すみやかに元に戻した方がよい。」との、お告げがありましたので、宿内の人たちによって、川底より引き上げられ鬼怒川上流の小倉の里に戻し建てられました。

 

 この石碑には「二十六夜」とあり、側に昭和9年(1934)12月吉日、白沢より遷(うつ)し祀(まつ)ると刻まれてあります。

 

昭和62年(1987)3月20日 第206号掲載

白沢宿今昔(64) 三奇談・七不思議(2)

経力稲荷

 大正時代初期、白沢のはずれに現在の製紙工場の前身にあたる綿布(めんぷ)工場がありました。その付近の山林に白沢宿の五人組が、ウサギの罠(わな)を仕掛けたところ、翌日、キツネが捕えられました。思わぬ獲物にびっくり、さっそく皮をなめしてキツネの襟巻(えりまき)をつくり使用したところ、五人とも熱のふけさめする奇病にかかり、なかなか治りませんでした。

 

 

 この奇病が発生したのは、白沢宿の北の玄関口にあたる、九郷半橋の近くに祀(まつ)り建てられ、江戸時代より宿内はもちろん、奥州街道を旅する人の信仰厚い経力稲荷(いなり)のおキツネ様のたたりではないかということになりました。

 

 さっそく祠(ほこら)の覆(おお)いの屋根を新しくし、鳥居を建てるなどした結果、悪性の奇病はようやく全快したといわれます。

 

昭和62年(1987)4月20日 第207号掲載

白沢宿今昔(65) 三奇談・七不思議(3)

和尚塚

 大正10年代(1921〜26)の寒い夜のこと、例年になく大雪が降り続きました。

 

 白沢宿にこんな噂がたちました。「白沢小学校の裏から下ケ橋(さげはし)に通じる山道の傍(かたわ)らに、和尚塚と呼ぶ小高い塚があります。この塚に住んでいるサルの集団が、毎日の大雪で餌(えさ)が不足し、空腹で我慢できなくなり、近く大挙して白沢宿に侵入する。」ということでした。

 

 

 この噂は宿内に広まり、大変な事になると、みんな心配顔でした。家庭の主婦たちは、赤飯を炊いて重箱に詰め、雪道を足袋姿でサルの集団が住むという和尚塚参りをしました。なんとかしてサルの空腹をいやし、侵入を防ごうと努力しました。また女性祈祷師(きとうし)は、毎日凍るような寒い朝・昼・晩の三回、ウチワ太鼓を叩き、宿内を回り警戒にあたりました。

 

 幸いにも、サルの侵入の話は噂に終り白沢宿の人たちは難をのがれました。

 

 やがて若芽ふく、おだやかな春を迎え、宿の人はほっとしました。

 

昭和62年(1987)5月20日 第208号掲載

白沢宿今昔(66) 三奇談・七不思議(4)

白沢南彫刻屋台と菊の紋章

 白沢南に、文化13年(1816)着工、文政3年(1820)完成の鹿沼で作られた屋台が一台保存されております。彫刻師は現在の大平町富田宿出身の磯部儀兵衛一門とされ、見事な龍や花鳥・波などの彫刻で飾られています。明治6年(1873)6月に鹿沼麻芋町より、当時の金160円で買い入れたものです。

 

 この屋台には不思議にも、各所に、皇室で用いられる、十六菊の紋章(もんしょう)が付けられて謎とされています。

 

 

 太平洋戦争の終戦までの屋台祭には、不敬になるとして、紋章の上に半紙を付けて祭礼をしたといわれています。現在、鹿沼市にある同種の屋台にも、この紋章があるのが見られます。

 

 十六菊の紋章は、後宇多天皇(1267〜1324)の頃より用いられ、その後明治2年(1869)8月、皇族のほかは、使用禁止の太政官布告がありました。

 

昭和62年(1987)6月20日 第209号掲載

白沢宿今昔(67) 三奇談・七不思議(5)

邪婆巳の図(宝暦年代)
明星院二十三世住職
隆慶 画 古橋氏蔵

白沢南彫刻屋台と菊の紋章 河内町保健センターの、すぐ東に峯通りと呼ぶ道がある。鬼怒川を見ながら、北は白沢台をへて下ヶ橋、南は中岡本・下岡本に通じる道で、東方に豊かな水田地帯が一望の中に見ることができる。

 

 そのあたりに、邪婆巳(じゃばみ)さんと呼ぶ祠(ほこら)があり、周辺に昔から伝説の「耕さざるの地」がある。邪婆巳の遊び場ともいわれ、この地を耕すと病気・火災などの不吉が起こるとされ、だれ一人としてこの地を耕作しなかったのは戦前までの話である。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦(ぜんしょうせん)となった、徳川軍の上杉攻めの際、鬼怒川を渡って進出する会津・上杉軍に備え、急きょ丸太で見張所を作った所でもある。現在その所に立って見渡すとなるほどよい場所である。

 

 この地に、いつのころからか峯下の沢水を汲み上げ、鉱泉の宿を開き繁盛したともいわれる。

 

 現在、この地の由来について知る人は少なく、忘れさられようとしている。

 

昭和62年(1987)7月20日 第210号掲載

白沢宿今昔(68) 三奇談・七不思議(6)

チスイヒル

 白沢宿付近の水田や小川には、昭和20年代(1945〜55)頃まで、血吸いヒルがまん延していました。

 

 水田などで素足で作業をしている人たちがいると知らぬ間にそっと吸い付き、気づいた時には手足などが真赤に出血しており2・3日は、かゆみがつづきます。

 

 嫁入りした若い女性たちは、水田作業中ヒルがひらひらと泳いでくると、田の中を逃げまわるなど、他の地区では見られない風景もありました。なぜこのように血吸いヒルが増えたのでしょうか。

 

 戦後、汚水の流入、農薬や化学肥料などの使用によって、ほとんど絶滅してしまいました。

 

 浮世絵の中に「ヒルをたける女」というものがありますが、どの宿場の遊女たちも、毒血を除くために血吸いヒルを利用したようで、ヒルの吸血には医療としての効果があったようです。

 

 白沢宿も彼女たちが使用後に放したヒルがまん延したものではないかと古老たちが話をされていたことを、よく耳にしました。

 

 昭和62年(1987)8月20日 第211号掲載

白沢宿今昔(69) 三奇談・七不思議(7)

お薬師さま

 白沢宿の北のはずれ、小学校への登り坂の左側に、薬師如来像を祀(まつ)るお堂があります。古文書には弥陀堂とありますが、通称お薬師さまとよび付近近郷の厚い信仰をうけておりました。ご本尊は身丈約70cm、金箔が塗られている、みごとなもので、江戸時代、宇都宮の仏師「鐘家 戸村将監」の作といわれているが、不思議なことに、いつの間にか左腕がないので、なぞとなっています。

 

 薬師如来は、古くから人間のあらゆる病気を治し、寿命を延ばす御仏として厚く信仰され、一般に左手に薬壺を持った姿であらわされています。

 

 

 神仏信仰にたより、病気を治すことのさかんであった時代には、仏像の一部を削りとって薬として服用する風習が各地で見られます。

 

 この薬師如来は、寄木造(よせぎづくり)りのために、何かの事情で欠損(けっそん)したのではないでしょうか。

 

昭和62年(1987)9月20日 第212号掲載

白沢宿今昔(70) 三奇談・七不思議(8)

現在の並木入口付近

 町役場の、すぐ西側の通りが江戸時代からの奥州街道です。白沢宿を出て役場前より宇都宮方向へ約100mほど行った付近を通称「並木の入口」とよんでいました。ここから宇都宮まで道の両側に赤松が植えられてあり並木となっていました。並木に入ると人家もなく、この入口に戦前まで二抱えほどもある一本の大赤松がありました。

 

 この赤松のもとによく追剥(おいはぎ)が出没すると噂されました。昔は徒歩で行き来しましたので、山かげから出てきては、通行人の手荷物や着ている衣類、金銭などを奪ったと言われる、気持ち悪い所でした。

 

 

 昔よその地区の、親戚の祝事や葬式にはとなり近所から紋付羽織袴(もんつきはおりはかま)など借衣装で出掛けることが多かったが、帰り道赤松の所で、この衣装を追剥に奪われたという話もしばしば聞かれました。そこで、遊ぶ金に困った人は、この話をよいことにして借りた衣装を質入れし、裸となって帰り、並木入口の赤松の所で追剥にやられたと、ウソをつく人も見られたそうです。

 

昭和62年(1987)10月20日 第213号掲載

白沢宿今昔(71) 三奇談・七不思議(9)

会津藩士の供養塔(白沢地内にて)

 戊辰戦争(1868)のとき、彰義隊(しょうぎたい)が上野の森で戦った際、宇都宮に進出した会津兵や幕府歩兵奉行だった大鳥圭介は軍を率い、宇都宮城を攻めましたが、戦いは不利のうちに会津へ退却することとなりました。

 

 宇都宮の落城は、慶応4年(1868)4月19日で、戦死傷者は道路などに多数遺棄(いき)されたままとなっていたそうです。

 

 

 白沢宿周辺にも鬼怒川を辿(めぐ)って、会津に退りぞく兵士たちで大変だったと、いわれています。鬼怒川上流の川治・三依を経て会津へ近道となっているためです。兵士たちの中には、血を流し傷つき倒れる者など各所に散在したため、地元の人たちによって葬られました。これが当地に見られる会津藩戦死者無縁の墓となっています。今は人家にかこまれ、そのゆかりについて知る人も少なくなりました。

 

昭和62年(1987)11月20日 第214号掲載

白沢宿今昔(72) 三奇談・七不思議(10)

旧奥州街道(白沢街道)

 江戸時代の奥州街道は、奥羽諸大名の参勤交代の通路として重要視され、五街道のひとつに数えられており、特に白沢より白河までの十宿間は幕府の直轄(ちょっかつ)管理のもとにおかれました。

 

 白沢宿から宇都宮方面に至る街道は、町役場のあたりから、道路の土を低く掘りさげて両側に高く盛り上げて土手をつくり、その外側に松並木が植えてありました。

 

 参勤交代の諸大名や旅人は、低い道路を通行しました。夏は風通しが悪いためむし暑く、冬は砂ぼこりがたちました。また雨が降ると排水の悪い道路となりました。戦後、道路の全面改修により、現在では、その姿を見ることができなくなりました。

 

 なぜ、このような道路が設計されたのでしょうか。なぞとされています。

 

 昭和62年(1987)12月20日 第215号掲載

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