下岡本五月女氏所蔵の太閤検地帳
豊臣秀吉は天下統一後のひとつの仕事として検地をやりました。検地とは土地を測量し、田畑から取れるお米や麦などの取れ高を調べ、租税を公平にわりあてて農業の生産高をあげ、日本の国の経済をしっかり立て直すためのものです。
検地をするには、検地奉行を村々にさしむけ、村境にはしるしの柱を、検地する場所の四角には棹(さお)を立て、縄を張り測量をしました。米や麦の取れ高を見積り、それによって上田・中田・下田・下々田の田畑の等級を決める石盛を行ないました。
検地で調べあげたことは、検地帳に書き入れ、村の年寄にも写させ、検地奉行が判をおし、少しでも不正があれば、何人も重い罰をうけました。
秀吉は晩年、太閤となりましたので、この検地の記録を「太閤検地帳」と呼んでおります。
現在この検地帳が下岡本五月女氏宅に保存されています。他にあまり例がなく、これによって安土桃山時代の当地の農業生産の様子や地名を知ることができる大切な資料です。