専光院の本尊様(和久自治公民館)
中岡本和久(わぐ)には、専光院と言う真言宗のお寺が在りました。特に壇家(だんか)も無い会所式寺院で、集会所としても使用された寺であったようです。昔から僧も住んでおられ、昭和になってからも、庵主(あんしゅ)さんとお呼びしていた尼さんがおいでになり、村の仏事に関する伝統行事や、村人に不幸などあれば忌日(いみび)にお経なども唱えてくれたそうです。仏事だけでなく、秋の収穫時には農家の庭に広げられた籾(もみ)などの片付け仕事まで手伝ってくれたり、子供達の面倒もみてくれたりしました。庵主さんは、心から村人の生活に溶け込んだ生き方をされたのでしょう。
寺に帰れば、本尊阿弥陀如来、右に地蔵菩薩、左に不動明王が安置された正面で毎日の勤行をし、生活をされたのでしょう。
恐らく代々の庵主さんの考え方で、その土地の人々の信仰や生活習慣などにも配慮されて、安置された仏様であろうと拝見しました。
平成2年(1990)4月20日 第243号掲載
岡本あれこれ(21) 専光院の庵主さん(2)
みこしが格納されているお倉(大杉神社)
和久(わぐ)板賀の岡本ヨシさんからお伺いした年中行事の幾つかを書くことにします。
毎年4月8日の「花祭り」には、現在も同家にある甘茶の葉を摘んで、お釈迦様の誕生仏に小さな柄杓(ひしゃく)で甘茶をかけて、様々な願いごとをお祈りしたといいます。
あんば大杉大明神をお祀りした大杉様のお祭り。
10月22日のお大師様のお祭りには赤飯を炊いて、かわらけに柿の実を切って上げると言う珍しい供物を捧げたそうです。
神仏混淆(しんぶつこんこう)が昔の日本の信仰でしたから、庵主(あんしゅ)さんも大杉様のお祭りが、お寺の境内で行われることも喜んでおられたのでしょう。現在も、大杉大明神の御興が専光院境内の倉に格納されています、この話は、庵主さんがこの専光院に住んで居られた昭和初年から15・6年ころまでの話でした。専光院にはその後、別な庵主さんがおいでになりましたが、生活が大変だからと数年で群馬県へ帰られたそうです。
河内町誌を監修された徳田浩淳先生の話では、宇都宮市塙田に明治3・40年頃まで桂蔵寺と言う尼寺があり、専光院へはそこからつかわされたのではないかとのことです。
太平洋戦争のころは、郷土防衛の兵士が30名ほど専光院に駐屯(ちゅうとん)していたそうです。
平成2年(1990)5月20日 第244号掲載