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岡本あれこれ(8) 岡本城の事(1)

岡本城の土塁

 中岡本に、岡本城という城がありました。築城者は真岡の芳賀氏から出た芳賀富高だと言われていますが、岡本城主となったので岡本信濃守富高と名乗りました。富高は、観応2年(1351)に駿河国(静岡県)の薩た山(さったやま)で戦死しました。その戦は足利尊氏と弟直義の戦いでした(太平記第30巻)このころの尊氏は宇都宮氏との仲も良く北朝方にいて、征夷大将軍として活躍していました。富高は北朝方の勇士でした。

 

 

 古く由緒のある城でしたが、その後の城主の氏名も明確なものはなく、王生綱重と言う人も城主であったと、徳田浩淳氏の郷土史年表に出ています。宇都宮氏最後の宇都宮城主国綱の時代には、岡本美濃守と言う人が城主であったと、「那須記」に出ています。禄高(ろくだか)は岡本3000石と聞いています。

 

 いずれにしてもそれ程大きな城ではなく、宇都宮以北の宇都宮氏の出城として氏家・下ケ橋(さげはし)・小倉(大桶)・玉生等の城があり、ほとんど数千石程度の城が多く、宇都宮氏と那須氏は度々、戦をしていますので、那須氏に備えた出城であったことは確かでしょう。

 

平成元年(1989)4月20日 第231号掲載

岡本あれこれ(9) 岡本城の事(2)

承応2年の検地帳

 岡本城は、宇都宮氏の滅亡した慶長2年(1597年)10月7日と共に廃城となりました。本丸や二の丸付近は昔の地形のまま残っています。特に本丸付近には、深い堀と高い土塁が残り、堀は五の堀説と三の堀説がありますが、私は三の堀までが正しいのではないかと考えています。

 

 富高から岡本美濃守までの約320年余りの間、この岡本郷は城を中心として生活して来ましたので、現在も城に関係する遺跡や地名なども残っています。

 

 台岡本には、承応2年(1653)の検地帳が残されています。廃城から56年目の検地ですから、まだ当時の地名や地形を推測できる資料と言うことが出来ます。ただし検地帳ですから耕地の地名しかわかりません。

 

 ここで関係する地名を列挙します。木城之内・城内ほり・二ノ丸・三ノ丸・三ノ丸ほり・惣くるわ・城下・城ノ前・ねこや・北ねこや・古屋敷・峯下・本宿・寺之内・清六内・落合・屋敷前・屋敷西・大師前・大師東・板が村・板が東・寺山・寺くぼ・寺後・ちうめんくぼ・本町・小門・柳くぼ・丸山・一里塚・わく坂・奥州海道一里塚等々ほかは略します。

 

平成元年(1989)5月20日 第232号掲載

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