弁天沼
前号で紹介しました逆面地区、山田川ほとりの弁才天さまの前に小さな沼があります。
この沼は、むかし藤のつるで羽黒山を背負ってきたダイダラボッチが、疲れきって、芦沼とこの沼にふんまたぎ、羽黒山を落としたときに、足跡にできた沼だという昔話もあります。近くに弁才天をまつることから弁才天沼と呼ばれています。
逆面地区では、江戸時代から明治時代にかけて、ねぎがたくさん栽培され「ねぎの本場」だったという話を、お年寄りからよく耳にします。このねぎは白身も長くやわらかな一本ねぎで、新里ねぎのような曲りがなく特に風味のよい香りをもつことから、なべ料理の材料として喜ばれ、奥州街道や日光街道の宿場町に大量に出荷され、遠くは喜連川の城下まで馬の背につんで運ばれたとのことです。特に鬼怒川を渡るのに橋がありませんので、ねぎを馬の背につんだ渡し船にはひと苦労だったそうです。
出荷期には、村中の大人はもちろん、老若男女が弁才天沼のほとりで、ねぎ洗いに精を出し、沼のまわりは社交の場と化したともいわれています。
昭和55年(1980)5月20日 第124号掲載
山田川シリーズ(11) 弁才天沼と逆面ねぎ(2)
改修前の山田川(逆面地内にて)
本号取材のため先月末、逆面地区山田川付近を数度目の探訪をいたしました。目下、沿岸改修工事の真っ最中、この分では田植えはどうなるものかと心配されました。
弁才天沼がねぎ洗い場となった理由は、わき水のため水温が年中かわりなく、常に摂氏15度前後で、特に寒中には好適な場であることがあげられます。
さて、これ程盛んであったねぎ栽培が、現在では地元の人にすら古老たちの昔話となり、忘れ去られようとしています。これには、いくつかの理由があります。明治中期となり、鉄道の発達とともに、近在の宿場町がさびれ販路(はんろ)がせばまれたこと、また大正時代に米作に転換するため、畑地の改田が進められ、ねぎの栽培が減少したことなどがあげられます。
ねぎは今、テレビ放送で話題になっている、中国西部のシルクロード方面の原産で、アジア諸国では古くから栽培され、冷涼な季節にもよく発育し、火山灰土でも軟化が簡単なため当地でも栽培されるようになったものと思われます。ビタミンA・B2・Cなどを含み、薬味ともなり、貯蔵がきくので冬野菜として重要です。
(つづく)
昭和55年(1980)6月20日 第125号掲載
山田川シリーズ(12) 弁才天沼と逆面ねぎ(3)
山田川のほとりにある弁才天
弁才天沼はブヨの生息地であることも、よく知られています。この虫は清水のわく沼や川の周辺を好み、人や家畜の体をさし、血を吸う小さな虫です。戦前、夏の盛り、この沼のほとりに草刈りにやってきた里人のひきつれた大牛がブヨの大群におそわれ、苦しみもだえ死亡するという哀れな話があります。現在では汚水の流入や、農薬散布のためこの小虫も減少しつつあります。
弁才か弁財か
このテーマに弁才天とのせましたら、弁財天ではないかと多数の方から、ご意見がありましたのでこれについて述べさせていただきます。
逆面の石碑には弁才天と刻まれてあります。百科辞典にも弁才天と記され、次の様な説明がありました。「詩歌、音楽を司る女神、弁天ともいう、仏教では無限の弁才によって、仏法を流布し、人間に幸福と子孫をもたらし、日本では池や川などの水辺にまつられた七福神の一つともなっている。俗に弁財天と書かれるのは、これが財宝をもたらすと解釈された結果である。」
昭和55年(1980)7月20日 第126号掲載