板戸街道
またの名を烏山街道ともいう鬼怒川向うの清原・高根沢・阿久津方面の人は宮街道と呼んでいる。岡本河岸が盛大の頃から、宇都宮藩と水戸藩との交易のための、最重要道路の一つで現在の田中集落の笛の目から上平出鶉内(うずらうち)地内を通り、松下電器工場の中を斜めに横切って、竹林の神社東から宇都宮今泉町に通じていた。
当時の繁盛ぶりは大変なもので、この間に何間もの休所や店があったという。
今でも平出地内には松田屋・亀屋などという屋号が残っている。中でも亀屋は、明治の終わり頃まで通行人の休所で、わらじ・雑貨・飲食品などを売っていた。
間取りは中廊下で仕切られた六畳間が多く、客間が六室もあり、食事宿泊の用をなしたが、今では建て替えられてその面影はなく、屋号だけがそのまま残っている。
街道にはき捨てられたわらじや馬沓(うまぐつ)を拾い集めて相当、大作りの農家のたい肥が充分まに合ったほどだといわれている。
上三川街道
上三川町を起点としてこの名がつけられたが、河内町に入ってからは、現在の釜根集落藤沢から岡本駅の西大熊酒店のところを通り、療養所北東の角で、海道新田街道と交差し、いすゞバス・関東麦芽の工場附近東側に添って古里中学校の裏側に出る。
それから和久(わぐ)の星宮神社西側を通って、峰づたいに白沢へ、ここで現在の県道(旧奥州街道)と交わり、白髭神社の西側を北上し、白沢小学校前で辰街道に合した。
当時は、重要道路の一つで多くの通行者でにぎわった。
(資料古老懇談会記録から)
郷土史話(13) 河内町の街道(2)
辰街道
旧瑞穂野方面ではこの名があるかどうかわからないが、水戸街道(旧平石の石井地内)から平出地区を南北に縦断して、田中集落に入り、お産塚と称するところを経て四号国道に交わり、杉本種郎氏裏で東北本線を踏切り、根古屋(ねごや)集落内旧道を迂回して和久(わぐ)に至り白沢に通じた。
白沢を南北に縦貫(じゅうかん)して現在の白沢小学校前で上三川街道と一つになって長峰・古田・相野沢・西組・立伏(りゅうぶく)・猿田山峠・横倉・徳次郎(とくじら)に至りここで、日光街道に合っした。宇都宮藩の重要道路の一つである。
大宮街道
県在の県道玉生線(田原地区を南北に羽黒を経て船生・玉生方面に通ずる)をいったもので当時の大宮村(現塩谷町大宮)方面に通じたところからこの名がある。
大宮は、小規模ながら宿場の一つであった。この辺からの年貢米・木材その他の物資を宇都宮に運搬する唯一の道路であった。部分的な改修が行われてきた。元県議田中立雄氏の前から東へ大きく迂回して天王原に出ていたが、現在では西側をほとんど直線に天王原に通じている。この街道一番の改修地区であろう。
義経街道
宇都宮塙田(はなわだ)村より大曽・山本・堀米・川俣・大塚・長峰・下ケ橋(さげはし)を経て川向へ渡った。
長峰の西方に旧街道跡(今は田のあぜ)があり、そのあたりに姫塚というのがある。白沢辺では大谷街道と呼んでいるのがそれだといい、道のそばに小塚が多くあった。
大曽地内には今も鎌倉橋と呼ばれる橋がある。当時鎌倉に通じた重要道路の故にこの名が出た。
(資料古老懇談会記録から)
郷土史話(14) 河内町の街道(3)
今もなお、奥州街道と呼んでいる人がある。
宇都宮市伝馬町日光街道の分岐点を起点とし、今泉・竹林・海道新田・白沢を経て阿久津の渡しを通り氏家・喜連川を経て奥州諸国に通じ、江戸へ上る五街道の一つである。
江戸時代以前は、下ケ橋(さげはし)から白沢台を通り大塚・川俣を経て大曽鎌倉橋に通じたものであるが、その後江戸時代になって現在のようになった。
伝馬町分岐点より鉄砲町・日野町・大工町・上河原を経て白沢まで2里28丁(10,852km)になる。
白沢の坂の途中に榎木(えのき)が植えられ、南側の木が今も残っている。北側(大黒屋)の木は道路改修のために切られてしまった。
この方が育ちがよく大木になり、江戸時代たびたびの洪水による鬼怒川の河原境界争いに、一つの目標木として幾度か裁定のために大きな役割を果たしてきたことが古文書に明らかである。今は、その雄姿が見られないのは残念なことである。
道中には石割塚・姫塚・稚児ヶ坂(ちごがさか)等々がありかずかずの伝説と史実に富んだ街道で、道筋の変遷と共に時代の移り変わりを知ることができる。
田原街道
岡本方面から白沢に出て上宝井・天王原・本郷・立伏(りゅうぶく)・猿田山・上横倉・徳次郎(とくじら)で日光街道に合した。
今市方面への米売りや、日光見物、男体山登拝などは、必ずこの街道を通ったものである。
頼朝街道
これはほとんど義経街道と変わりはないが、大塚から長峰を通らずに、白沢の台に出て下ケ橋に通じたと伝えられているところを見ると、その後奥州街道がこのように変わったのかもしれない。
頼朝がこの地を通ったのは、義経よりかなり後のことである。
郷土史話(15) 河内町の街道(4)
義家街道
永承6年(1051)、奥羽の豪族安部頼時は、摂政関白藤原頼道に謀叛を起こす。
関白は直ちに源頼義に安部一族の追討を命じた。頼義は子の八幡太郎義家を伴って奥州に赴き、安部貞任を殺し、宗任を降した。康平5年(1062)、これを前九年の役という。越えて21年後の永保3年(1083)奥羽の豪族清原家衡再び謀叛を起こす。
関白藤原師美、源義家に追討の命を降す。義家命を奉じて奥羽に赴き、寛治元年(1087)清原氏を滅ぼす。これを後三年の役という。
この二回共、それぞれ義家は大軍を率いて田原の郷を通ったというのである。今に語り伝えられる道筋は、大曽鎌倉橋を渡って、豊郷地内瓦谷に至り、宮内・一侍(いっさむらい)を経て水境の西を本郷・黒石に出て、逆面(さかづら)から高松に抜け、藤原から山を越えて塩原に出たという。
一説には船生・玉生を経て黒羽・芦野白河方面に出たともいう。
田原地内には、片葉の葦などの伝説が残り、これを八幡太郎街道といっている。土地の人は、昔宇都宮に通ずる重要な道路であったと語る。
(古老懇談会記録から)
郷土史話(16) 河内町の街道(5)
日枝神社
第四国道 明治17年(1884)栃木県令三島通庸によって開通した。
三島通庸は、鬼県令の異名を持つ独裁家でこうと決めたら即決、いかなる反対も異議も認めない。
この国道を開くときも道は真っすぐに通せ、いかなる障害物もこれを認めないという方針であった。岡本地内の方線も最初は藤沢にて釜根(かまね)地内に下りることなく、真っすぐに台地を行って申内(ざるうち)の杉本氏の辺りを貫通して、今の石上の鉄橋へ通じたそうである。
そうなると下岡本日枝神社の境内は真っ二つ。社殿は移転、これではたまらないと氏子一同陳情(ちんじょう)におよんだ。
地元民が方線を知った時は、もうすでに木は伐採され幅杭(はばぐい)は打たれ、おそらく一言のもとに却下されるだろうと思った。
ところが県令自から現場に出向いて下知を下した。藤沢の台に立ってステッキでこの方向へ変えろと一言。さあ大変、指示通りにすると現在の釜根・北組南部の中心を貫いて鬼怒川に出る。
屋敷は三角になる。家屋建物は移転すると莫大な費用と日時を要するので、技術陣がおそるおそるこの旨言上して、現在のように変更されたものだという。
そのために、日枝神社の参道が約250mほどで道路敷になって、近郷に誇った参道両側の杉並木は切られた。
この日枝神社は明治元年(1868)神仏分離。明治3年(1870)新律綱領(しんりつこうりょう)の制定などを見るまでは、郷社として近郷の信仰を集めていたもので、県令としても境内貫通・神社移転などという荒療治はいささか気が引けたのだろうと当時うわさされたものである。
(古老懇談会記録から)