下田原地内の片葉のヨシ
下田原地内、山田川の山根堀に沿った地域に「片葉のヨシ」と呼ばれる植物が繁茂(はんも)しています。このヨシは県内でも珍しく、筆者の知る限りでは、佐野市旧城跡の外堀、塩原町の史跡源三窟(げんざんくつ)前の湿地、小山市の思川畔(こはん)、当町下田原地内ぐらいでしょう。これらの「片葉のヨシ」は、いずれも節から一枚ずつ片方にのみ葉を出しているのでその名があり、片葉の由来についてはそれぞれの伝説をもっています。
例えば佐野市の場合は、当地の豪族が九州より片葉のヨシを持ち帰り外堀に移植したものと伝えられ、また塩原町のものは七不思議の一つに数えられ、恋に破れた若者の片思いが「片葉のヨシ」に変化したとか。それでは当町下田原地内のものは、どんな由来があるのでしょうか。
(つづく)
昭和56年(1981)1月20日 第132号掲載
山田川シリーズ(19) 片葉のヨシ(2)
下田原地内、山田川からの分水である山根堀に繁茂(はんも)する片葉のヨシの由来にふれる前に、町内には植物の愛好者も多数おられるので、ヨシについて調べて見ることにしました。最近の新聞紙上で、片葉のヨシは日本では絶滅寸前にあると、報じております。果たしてどうか。
アシとヨシ
植物辞典によると、アシ(蘆・葦)と書く、アシの音が「悪し」に通じるのを忌みきらって、後生になってヨシ(善し)と呼ぶようになったといいます。イネ科の多年草で、各地の水辺に自生するとあります。
アシの国
日本のことを古くは、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)といっていることを思えば、昔は日本国中がアシでおおわれていたことが想像されます。
日本だけでなく、温帯から亜熱帯にかけて生え、高さ1〜3m、長い葉先がたれ、秋になると褐色(かしょく)をおびた穂を出します。
セイタカヨシ・ツルヨシ・クサヨシなど多数の種類がありますが、辞典には片葉のヨシは見当りませんでした。茎は「すだれ」・「よしず」などに用い、パルプの原料ともなり、根茎は利尿剤、止血剤ともなっています。
(つづく)
昭和56年(1981)2月20日 第133号掲載
山田川シリーズ(20) 片葉のヨシ(3)
後三年の役
源義家はがんの飛ぶのを見て伏兵がいることを知ったと伝えられる。
(後三年合戦絵巻から)
下田原地内の片葉のヨシの由来については、どんな話があるのでしょうか。内容が少しそれますが、片葉のヨシになった伝説に関係することなので、つぎのことを少し述べさせていただきます。
平安時代の中頃、奥州に二度の戦乱がありました。これを前九年の役・後三年の役と呼んでおります。
前九年の役は、源頼家とその子義家がこれを平定し、後三年の役も源義家が活躍したことはあまりにも有名な話です。
栃木県内には、八幡様とよばれる社が数多く祀られています。これは当時、源氏の氏神である八幡宮を武士が郷土へ移し祀って祈願出陣したといわれています。
当時を語る昔話として、南那須町鴻野山の長者ヶ平より出土する焼米(やきごめ)や、塩原町の八幡神社にある八幡太郎義家ゆかりと伝えられる逆杉などたくさん残されております。
町内にも源氏ゆかりの義家・頼朝・義経街道などの史実や伝説が数多く残されています。
(つづく)
昭和56年(1981)3月20日 第134号掲載
山田川シリーズ(21) 片葉のヨシ(4)
3月末、数度目にわたる山田川付近を訪ねたときには、沿岸の改修工事も下田原にまで及び、思い出の場所もつぎつぎと変わってゆきます。
さて、当地内の片葉のヨシの由来について、地元の渡辺康之助さんにお尋ねして見ることにしました。お話によると「前号にて説明のあった、後三年の役に出陣した源義家軍の一行が奥州より還りの途中、この地を通過し、龍開山(琴平山)付近のふもと一帯で駒を止め休養し、景色をながめていたところ、同行した多数の馬が付近に繁茂(はんも)していたヨシの葉を腹一ぱい食べたため、その後ここに生えるヨシはすべて、片方にのみ葉をつけるようになったと伝えられ、現在でも片葉のヨシが見られます。」とのことでした。
また一説には「奥州への出陣があまりにも急ぎであったため、進軍中の馬が片方の葉しか、食べられなかったので、以後片葉に変形した」ともいわれています。
奈良・平安時代には、都から奥州への幹線(かんせん)道路としては、東山道を経て、下野国府から白河の関を北上したようです。鬼怒川の渡河点としては、下ヶ橋付近を利用したと考えられます。
昭和56年(1981)4月20日 第135号掲載