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白沢宿今昔(18) 白沢宿と本陣(1)

本陣、宇加地家の家紋

 関ヶ原の合戦後、江戸時代となり、大名の参勤交代の制度が行われるようになり、主な街道には宿場が設けられ、諸大名の宿舎や休憩のために本陣がおかれ、奥州街道筋の白沢宿では宇加地家がこれにあてられました。

 

 「北越軍談」によると、戦国時代の天文年間(1532〜55)、越後の守護代であった長尾家に内紛(ないふん)が起り、長尾為景の長子晴景は酒色におぼれ臆病(おくびょう)なため、弟の景虎(後の謙信)にその地位を譲っています。

 

 

 

 白沢宿本陣、宇加地家の由来については、長尾家の内紛の時、先祖は越後加地城主だったが、この争いに巻き込まれ、兄の方に見方したため、下野の宇都宮氏をたよって食客(しょうきゃく)となり、宇の一字を賜(たまわ)り宇加地氏と名のり、当家の先祖になったといわれています。

(つづく)

 

昭和58年(1983)6月20日 第161号掲載

白2沢宿今昔(19) 白沢宿と本陣(2)

本陣だった宇加地家(現在)

 参勤交代のため、白沢宿を通過する大名の数は年代により異なり、奥州の諸大名と下野国内では黒羽・烏山・大田原・喜連川などの大名でした。天保年間(1830〜44)には37の大名が、江戸へ国許へと全盛を極め、白沢宿はお供の侍や助郷(すけごう)の人たちなどでにぎわった。

 

 文学博士大島延次郎氏は、今市市の出身で「日本交通史」・「本陣の研究」などの著書は、歴史地理学の大家として知られ、博士はその著書の中に研究を志す動機として、白沢宿本陣宇加地家に所蔵された記録に接した事であると記されています。

 

 宇加地家は江戸時代を通じ諸大名の休憩や宿泊などの本陣、また町名主としてその任を勤めました。

 

 当家には多数の古文書・歴史史料の他、「寛政元年巳酉」(1789)銘の雛人形など、当時の様子を物語る貴重な資料が伝えられています。

(つづく)

 

昭和58年(1983)7月20日 第162号掲載

白2沢宿今昔(20) 白沢宿と本陣(3)

宇加地家の庭園

 白沢宿本陣であった宇加地家の母屋は江戸時代の建築とされ、所々に昔の面影を残しています。

 

 鬼怒川阿久津河岸、若目田家系図によると、江戸時代の若目田道安は河岸を営み、その子新七郎正活は白沢に住み、その二男は本陣宇加地家の養子となっています。

 

 明治新政府は逓信(はいしん)制度を確立し普及させることを極めて重要と考えていました。このとき「日本郵便の父」と呼ばれる前島密は明治4年(1871)郵便制度を創設しましたが当時の国家財政では困難であったので、かつての庄屋・本陣など地方の資産家に郵便取扱役として手当を支給し、土地や建物を提供させ郵便取扱所を開設しました。

 

 現在、本陣であった宇加地家の敷地内に、河内郵便局が設立されているのも、右の理由によることと思われます。

 

昭和58年(1983)8月20日 第163号掲載

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