鬼怒川渡し場付近略図
(江戸時代古地図より)
江戸時代、奥州街道筋白沢宿のはずれ、鬼怒川沿いに杉の大木が三本並び立って、はるか遠くからでも見わたすことができました。ここに旅人の休み所があり、この先は、すぐ河原に出て渡し場になるところから、旅人が一休みをし疲れいやす所となっていました。またここには白沢宿名物の一つ「駒生屋(こまにゅうや)のまんじゅう」なども売られていました。
この杉の大木のあたりに、古くから与作稲荷が祀(まつ)られ、地元の人の尊敬を集めておりました。この三本杉から南方に県新田とよばれる所があり、15.6町歩(15万3600m2)ほどあったが、しばしばの洪水に流され現在では6町歩(5万9500m2)ほどしかありません。
この土地は安政年間(1854〜60)宇都宮藩の家老、県氏が殿より拝領したもので、その後付近のものに払い下げることとなり、二百両の値を予定しておりましたが、この時家老は「二百両より、もう少し出せないか」といわれたので、一声で「二百十両」といったところ「それでよい」と申され、地元の人はここを二百両新田とよんでいるが、実は二百十両新田が正しいのだそうです。
(つづく)
昭和58年(1983)10月20日 第165号掲載
白沢宿今昔(23) 三本杉とキツネ(2)
三本杉のかたわらには、与作稲荷が祀(まつ)られ杉の大木の根元にはウロがあり、そこにキツネの親子が住んでおり、日が暮れると白沢宿に出没しては、通行人をだますという噂がありました。
ある夜、参勤交代の途中の殿様が、ここの本陣にお泊りになりました。殿様は退屈のあまり、おしのびで宿場の料理屋へお酒を飲みに出かけました。あまりの接待に時のたつのも忘れ、夜更(ふ)けに一人本陣に帰りました。
殿様は、寝ないで待っていた侍たちに、機転をきかして「三本杉のキツネにだまされ、遅くなってのう」と申されました。侍たちはうそと知りながらも、「御意」と申しました。
その後、殿様が参勤交代で白沢宿の本陣に泊まると、お供の侍たちは、夜になると宿場に出かけ遊ぶようになりました。そして、どんなに遅くまで遊んで帰っても「三本杉のキツネにだまされ、遅くなりました」と申し上げると、殿様はおとがめになりませんでした。現在は道筋も変わり、三本杉は枯れてありませんが、地名として残っています。
昭和58年(1983)11月20日 第166号掲載