下田原久部大橋から見た山田川
悠久の時を流れ、自然のままの姿であった山田川も、人間の手を拒むことができませんでした。
田原三千石と言われた穀倉地帯、思い出の魚とり・水浴び、数々の喜びや悲しい出来ごとのあった川筋が、この度の沿岸土地改良整備事業によって、その姿を変えることになりました。
戦後、学校でPTAの会合の後には、必ず「百円飲み会」と言うものがつきもので、お酒とスルメをつまみに、夜の更(ふ)けるまで懇談(こんだん)したと言います。情緒あふれる故事も、学校内における飲酒禁止通達によって一変し、今では昔の語り草となりました。
いずれにしても、山田川沿岸は古今を問わず豊かで平和な里となっています。
(つづく)
田原地区の石高推移(1石=150kg)
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昭和54年(1979)12月20日 第119号掲載
山田川シリーズ(6) 豊かで平和な里(2)
水源地帯の風景
山田川上流の水源地帯について、少し述べて見ることにします。
当地の学校の運動会に「金塊(きんかい)はこび」と呼ばれる、よそでは見られない伝統ある珍しい種目があります。これは山田川水源地帯に、昔金鉱が採掘されたことに由来する種目なのです。
当地の古記録によると佐竹氏が水戸領を支配していた当時、山田川上流の金鉱に着目して採掘したのが起こりといわれ、江戸時代は露天堀でした。
明治時代に入り盛衰(せいすい)を繰り返し、大正10年(1921)頃には鉱山労働者が300人にも達し活況(かっきょう)を呈しました。しかし、昭和初期には労働争議などもあり、閉山となりました。現在でも金山などの地名や、坑口跡が見られます。記録には地下約30m、地下道東西線延長約60m、産出量は昭和5年(1930)までの5年間に金100kg、金鉱450kgとあります。
(つづく)
昭和55年(1980)1月20日 第120号掲載
山田川シリーズ(7) 豊かで平和な里(3)
源流付近
山田川の上流に中里宿とよばれるところがありますが、昔は中里氏の所領となっており、鎌倉時代初期、宇都宮氏の一族である氏家公頼の二男、中里筑後守高信であるといいます。中里氏は代々、宇都宮二荒山神社の社務職をつとめていました。
中里氏の関係から宇都宮氏の菩提所(ぼだいしょ)興禅寺の寺領でもあり、中里郷の農民が仏殿修造について多額の寄進や年貢をしいられ、農民の生活が苦しくなり各地に逃げ去ったそうです。中でも山田川上流の宮山田は、当地の名主にかくまわれ、平和な生活を求め、一層団結をかため誓い合って、山田川の水源地帯に永住するようになったという、平和を求めてのかくれ里でもあったといわれます。
また、この地に高龗(たかお)神社と呼ぶ社があり永正11年(1514)11月創建で、現在でも旧暦11月1日に宵祭(よいまつり)が行なわれ、氏子(うじこ)は宮座の形態の中に古風で伝統ある行事が今に残されています。
山田川水源地帯のお話はまだまだつきませんが、一応これまでとして、次号より町内を流れる沿岸の探訪にうつらせていただきます。
昭和55年(1980)2月20日 第121号掲載