中央部の杉木立が城跡
大字逆面(さかづら)集落の裏山一帯にかけて約六町歩(約59,500m2)の広さをもつ山城である。東部は裾に満々たる水をたたえた山田川を廻らし約30mの急崖(きゅうがい)で、北・西面とも山また山の要害である。
山中に空濠や土手、土塁のあとも現存し往時をしのばせている。
また城郭の東方に堀の内と称する所があり四囲に堀と土手を配しているが、これは城主の館跡で平時はここに住んでいたという。
風雲急を告げると山上の城へ馳(は)せ上り、守りを固めたのであろう。
城主は宇都宮の武将逆面氏で宇都宮家臣記に逆面周防守とある。
築城年代は不詳であるが室町期と推測できる。逆面氏が宇都宮氏の武将として現われるのは室町初期の康歴2年(1380)5月の宇都宮基綱対小山義政の茂原合戦である。以後宇都宮の勇将として活躍している。
特に天正13年(1585)宇都宮国綱が栃木の皆川城を攻めるべく軍議をした時、諸大将は皆川方の大軍に不安を感じ、城攻めを思いとどまらせようとしたが、逆面周防守は「敵大勢なるに驚き合戦を思い止まるは武士の本意にあらざれば云々」と強攻策を主張して勇将ぶりを発揮している。
また天正16年(1588)の再度の皆川合戦の時にも「宇都宮方芳賀伊賀守、逆面周防守両人は大将皆川山城守を討ち取らんと切抜けて追廻る。山城守叶わんじと徒立と成りて山伝へに落行ける」と勇戦の程が伝えられている。
廃城も定かではないが慶長2年(1597)10月主家宇都宮国綱の滅亡とともに廃城となったようである。
とにかく中世の平山城の姿がこのようによくとどめられて保存されているのは珍らしいのではないだろうか、貴重な遺跡として末長く残しておきたいものである。