現在は一望千里の美田であり、町内屈指の豊穣な米の産地として実績を示している東岡本。現地を見れば、今日の機械に依る農業にふさわしい間隔をもって農家が点在し、水路も見事に整備された美しい農村地帯が展開されています。そこに輝かしい業績が感じられます。この見事な農村に仕上げた先祖と、それを今日まで維持し続けた人達には、強い畏敬(いけい)の念を禁じ得ないものがあります。遠く那須・日光の連山を望み、近く鬼怒の清流を擁する田園にこそ誇るに足る「ふるさと」であると思います。
この山紫水明(さんしすいめい)の地を開拓しようと考えたのは、菊地孝兵衛(佐野屋長四郎)でした。孝兵衛は、宇都宮では士分に取り立てわれ、江戸では商人でした。嘉永6年(1853)5月17日に没しています。
安政2年(1855)11月27日に、藩主戸田忠明が岡本新田に駐馬せられ、開墾事業の成功を賞しました。依って藩主の駐馬された所へ塚を築き碑を建て記念とすべく計画が立てられました。しかし、明治維新に伴なう兵馬の混乱に逢い、中止となりました。
平成4年(1992)2月20日 第265号掲載