第1回 ―白沢宿の昔―
このたび、白沢宿に係わる事柄についていくつか紹介させていただくことになりました。
ところで、「白沢宿ってどんなとこ」と言われる方もいらっしゃるかと思いますので、今回は白沢宿の昔を、次回に今について紹介させていただくことにします。
一口に言われる白沢宿は、白沢甲部、白沢河原、白沢南の3自治会で構成されていますが、自治会の垣根を越えて白沢宿と呼び親しみ、親交を図っています。
また、交通信号機の地名標示板にも白沢宿と標示されているほどです。
◆白沢宿の昔
白沢宿は、江戸時代に整備された五街道の一つである奥州道中の宿場でした。
参勤交代の武士や旅人、馬市(うまいち)などで大変に賑わったと言われています。
日光道中の宇都宮を起点に白沢―氏家―喜連川―佐久山―大田原―鍋掛(なべかけ)―越堀(こえぼり)―芦野―白坂(しらさか)―白河の10宿で構成され、江戸から約120㎞、宇都宮から約11㎞、氏家から約6㎞です。
この頃の宿場を読み込んだ歌があります。
「明けの七つを宇都宮 夜はほのぼのと白沢の はや氏家に喜連川 花の佐久山後にして かわいいお方に
大田原 ちょいと御腰を鍋掛けて 那珂川越して越堀と 二十三坂七曲り 皆さん芦野豆にして あちらこちらに寄居(よりい)村 白坂八丁お手前の 滝の明神願かけて 奥州白川茂登町辺(もとまちあたり)に 所帯持つ気にならしゃんせ」。
さて、歴史を遡ってみますと、慶長10年(1605)に白沢村と上岡本村の両村による願いにより「白沢宿」として往還馬継宿(おうかんうまつぎやど)(注)となり、同14年(1609)に幕府役人が現在で言う実地調査をして往還町割が整備されました。
天保14年(1843)には本陣、脇本陣各1軒、旅籠((はたご)13軒、人口369人とあり、宿内の長さは現在とほぼ同じでした。
通行した大名は、盛岡藩、仙台藩、米沢藩など東北地方、県内では喜連川藩、黒羽藩などで、参勤交代の時期である6月が多かったようです。
(注)往還とは伝馬(てんま)を常備している本街道(ほんかいどう)、馬継は旅人の荷物を運ぶ交替場所のこと。
参考:河内町誌(昭和57年3月刊。河内町)
奥州道中分間延絵図(ぶんけんのべえず)に描かれた1790年代の白沢宿
まちづくり情報紙かわち 第49号
(平成27年5月発行)より
第2回 ―白沢宿の今―
明治(1868)に入るとこれまで約300年にわたって賑わってきた白沢宿も、時代の流れに伴い寂しくなりました。
明治17年(1884)に岡本―宝積寺を通る現在の4号国道が開通し、明治19年(1886)には大宮―宇都宮間に続いて宇都宮―西那須野間にも鉄道が開通。
しかし、鬼怒川の度重なる水害によって運転が中止となるため、路線の変更が急務となり、明治30年(1897)に現在の岡本―宝積寺を通る路線が誕生しました。
こうした変遷から通行人は減少し、地域の人たちは農業や養蚕業に転じて生計を保ってきました。
一方、宿内の道路の真ん中を流れ、手足を洗ったり馬に水を飲ませたりした掘り割りが両側に移されたり、家も次第に改築されて当時の面影は薄くなりました。
しかし、景観は今も往事の面影をよく残していて、宇都宮市の景観形成計画の中で重点地区に指定されています。
そうした中で、地域の人たちは少しでも活気を取り戻そうと平成2年に奥州街道白澤宿の会を立ち上げ、様々な活動を繰り広げています。
最初の活動として当時の町役場の肝入りで奥州道中を踏破しようということなり、2班に分かれて白河から白沢まで(写真)、宇都宮から白沢までを2日がかりで歩きました。
白河からの健脚組は前泊をし、午前6時に白河市長の激励を受けて市役所を出発、途中大田原に宿泊して白沢に戻りました。各宿場では盛大な歓迎を受け、元気をもらいました。
「白沢に先を越されたなー。俺たちも奥州道中を歩きたかったんだよ」という言葉が今も耳に残っています。
さらに各家に屋号の看板を掲げたり、地域の方の浄財を得て七福神や一里塚跡の碑を設置しました。
宿の会の女性部は活動が盛んで、白沢小学校の納涼祭やふるさと産業まつり、白沢公園灯籠流し、白沢宿場祭などの際には店を出して喜ばれています。
平成19年秋にはNHKBS2の「街道てくてく旅」で全国に生放送されたこともあり、これを機に週末や祝日には訪れる人が多くなりました。
こんな白沢宿ですが、皆さんも機会がありましたらぜひお越し下さい。
(河内町誌(昭和57年3月刊。河内町)を参考にしました)
奥州道中を歩く
まちづくり情報紙かわち 第50号
(平成27年7月発行)より
第3回 ―万年橋(まんねんばし)のカッパ―
今回は、白沢宿に伝わる昔話を紹介します。
奥州・遠野の地にカッパ淵という所があり、カッパが棲んでいたとか。
ある年のこと、殿様が参勤交代で江戸に行く際、2匹のカッパが代表で江戸見物に行くことになりました。
カッパは頭の皿が乾かなければ人間には見えないとのことでしたが、この年はあいにく空梅雨でした。
白沢宿に着いた時にはすっかり乾いてしまい、子供達に気づかれたためカッパはこれはまずいと、九郷半川(くごうはんがわ)に飛び込み姿を隠しました。
カッパにとっては久しぶりの水でしたので、時の経つのも忘れて遊んでしまいました。
日が暮れて本陣に戻ると殿様一行の姿が見あたりません。
困ったのはカッパです。
江戸への道も遠野への道もわかりません。
しかたなく殿様一行が江戸から帰るのを待つことにしました。
カッパの騒ぎも薄れて夏になり、子供達が盛んに川遊びをするようになりました。
ある日、男の子が一人で万年橋(写真)のたもとでカッパ釣りを始めました。
カッパは大好きなキュウリが流れて来たので、糸に付いたキュウリを引っぱりました。
その弾みで男の子は川に落ちましたが、たまたま下流で馬を洗っていたお百姓さんに助けられました。
釣り糸に付いていたキュウリは1本でしたので、もう1匹のカッパは食べることが出来ず、馬の後に付い
て行けばキュウリが食べられると思い、馬に付いて行きました。
馬小屋に入るとキュウリが2本ありました。
カッパが喜んでキュウリを掴んだ時、それを見た馬が怒りカッパを追い回しました。
騒ぎを聞きつけてお百姓さんが来て見るとキュウリを持ったカッパが馬に追いつめられて困っていました。
するとお百姓さんは馬の手綱を引き寄せ、カッパから離したのです。
それは男の子が流された時、このカッパが子供が沈まないよう川の中で一生懸命支えていたのを見ていたからです。
その時の恩返しを込めて、もう1本キュウリをあげて万年橋のたもとまで連れて行き仲間と一緒にしてあげました。
それから3年後、殿様が国元へ帰る時、カッパも一緒に帰りました。
以来万年橋でカッパを見ることは無くなつたとのことです。
(NPO法人グラウンドワーク西鬼怒が主宰した「かわちの昔話と絵本読み聞かせ講座」で披露されたこの話を、字数の関係で一部加筆・削除のうえ使わさせていただきました。)
万年橋と旧九郷半川
まちづくり情報紙かわち 第51号
(平成27年9月発行)より
第4回 ー白沢宿の紙上散策ー
今回は、紙面の上で白沢宿を散策してみましょう。
どこから歩き始めても良いのですが、河内地域自治センターを出発点とします。
自治センターの東側から道路に出たら左手の交差点を右折し、少し進むと右側に安産、子育ての地蔵堂が見えます。
階段を上ると左側に由緒を記した案内板があります。
1月と8月の縁日には大変賑わい、地元の女性たちによるふるまいがあります。
地蔵堂を出てさらに進むと真ん前に白沢宿の入り口と言われた榎の大木、根元には江戸時代の公衆便所と伝えられる小さな建物(写真)があり、人気のスポットです。
左側の薬(や)研坂(げんざか)の案内板を背に階段を上ると右側に猿田彦(さるたひこ)をご祭神とする白髭神社の本殿が見えてきます。
80余りの階段を下りて鳥居の前に出ると用水路には水車が回り、のどかな風景を醸し出しています。
目の前の道路を大名や旅人が通ったことを想像してみて下さい。
左に進みます。
かつて本陣だった建物が見えます。
さらに進んで明星院(みょうじょういん)の看板に従って左折すると、正面に地蔵菩薩をご本尊とする真言宗智山(ちさん)派の明星院の本堂が見えてきます。
初不動や施餓鬼(せがき)供養の際は参詣人で賑わいます。
関東88カ所霊場の第25番霊場です。
境内を出てすぐ左に曲がり、斜面林の下の道を進みます。
薬師如来を祀る薬師堂に着きます。
薬師堂を背に進みます。
信号の向こう側には経力(きょうりき)稲荷(いなり)、橋を渡って約500㍍行くと定期バスの折り返し場に着き、一里塚跡の碑が見られます。
同じ道を戻り、白沢甲部公民館の前を左折すると北野神社。
菅原道真を祀り、境内には白沢甲部自治会の彫刻屋台(宇都宮市指定文化財)が保存されています。
川沿いの木道を歩き、白沢公園を経て南に進むと右側に須賀神社があります。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀り、すぐ前には白沢南自治会の彫刻屋台(同文化財)が保存されています。
これらの屋台の次回の巡行は平成30年秋です。
須賀神社を背に右に進み、県道に出たら右手の交差点を左折して自治センターに戻ります。
各所に七福神が祀ってあり、また屋号の看板もありますので、歩きながら探すのも楽しみです。
約2時間の散策、お疲れ様でした。
江戸時代の公衆便所
まちづくり情報紙かわち 第52号
(平成27年11月発行)より
第5回 ー白沢宿の年中行事ー
白沢宿の新年は、真言宗智山派・明星院(みょうじょういん)の修正会(しゅしょうえ)で始まります。
午前0時を挟んで大晦日の深夜から新年にかけて行われ、新しき年を祝い、社会の平和と皆様の諸縁吉祥(しょえんきっしょう)が祈願されます。
境内に除夜の鐘が響きだすと白鬚神社には初詣の人々の姿が見られます。
当番の人たちにより温かい甘酒が振る舞われ冷えた体を温めています。
白沢十日会(とうかかい)例会(1月10日夜)。
白沢南自治会の有志によって構成され、今年の3月で創立105年になります。
規約には「この会は永久に解散せざるものとする」とあり、私は3代目です。
農繁期の5、9月を除いて毎月10日に地蔵堂を会場に2時間厳守で開かれています。
戦時中には出征した会員に慰問袋を送ったとの記録が残っています。
どんど焼き(1月10日ごろの日曜日夜)。
白沢河原自治会で開催されます。
お正月の飾り物が赤々と燃える炎を囲み、集まった人たちは、カッポ酒や豚汁で体を温めています。
初地蔵(1月24日)。
子育て安産の地蔵を祀る白沢地蔵堂の縁日です。
多くの参詣人で賑わいます。
初不動(1月28日)。
お不動様と新年初めてご縁を結ぶ日で、明星院の不動堂ではお不動様のご加護を念じて護摩木が焚かれます。
初午(2月最初の午の日)。
正一位稲荷大明神と書かれた紙の旗に赤飯やシモツカレを藁(わら)つとに入れて吊し稲荷明神に供えます。花まつり(4月8日)(写真)。
明星院の本堂前に花御堂(はなみどう)が飾られ、訪れた人たちはお釈迦様の像に甘茶をかけてお釈迦様のように清く正しく情け深い人になるよう誓っています。
白沢公園灯籠流し(9月中旬の日曜日夜)。
実りの秋を前に、旧九郷半用水で行われます。
薄暮の水路に100を超える灯籠が流れる光景はまさに幽玄の世界です。
宿場祭り(11月23日)。
白鬚神社の例祭を賑やかにしようと白澤宿の会によって開かれます。
5年ごとに彫刻屋台が巡行されるほか、巡行がない年は白沢南自治会の若衆によって梵天を奉納し子供神輿が渡御(とぎょ)します。
また芋煮会は大盛況です。
こうして再び大晦日の夜には明星院で修正会が始まり、年が暮れていきます。
他にも山倉様、恵比寿講、古峰神社講、三峯神社講などがありましたが、今は消滅してしまいました。
まちづくり情報紙かわち 第53号
(平成28年1月発行)より
最終回 ー白沢小学校の自由教育ー
今回は、大正時代に県内の小学校に先駆けて実施した市立白沢小学校の自由教育について紹介します。
白沢小は明治6年(1873)5月24日の創立で、今年で140年を迎えます。
最初の校舎は現在の明星院(みょうじょういん)の本堂で、明治23年(1890)に2代目の校舎が白鬚神社の前に完成しました。
私の父はこの校舎で学び、雪の日には竹馬で登校したと言っていました。
大正10年(1921)に現在地に3代目の校舎が完成し、今の校舎は5代目です。
自由教育とはどんなものだったのでしょうか。
当時の校長だった高橋田麿(たまろ)氏は、白沢小学校創立80周年記念の文集の中で、「大正十二年秋、白沢小学校において自由教育を栃木県ではじめて実施して、本県初等教育界に大きな波紋を巻き起こしました。
この自由教育は当時千葉県師範学校附属小学校の主事をしていた同郷(塩谷町大宮)の先輩手塚岸衛(きしえ)氏の研究唱導したものです。
その頃の学校教育はすべて教師中心の劃一(かくいつ)的注入の教育でありました。
それを打破して児童中心の自由な自己活動の教育にあらためたものです。
言い換えれば児童が自らの力で実験し解決しながら学ぶという教育でした。
子どもも先生も皆真剣で学校中が生き生きとし活気がみなぎっていました。
私はこの頃の経験で謄写版(とうしゃばん)使用の大切なことを今でも思い起こします。
その頃堀井謄写堂外交員に本県内で原紙を沢山使う学校を訪ねました処、年に千枚以上使用する学校は白沢小と宇都宮市の南校(現在の一条中学校の前身。南校は千枚)だけでその頃の白沢では実に千五百枚を使うと言っておどろいていました。
「大正十四年十月研究発表会を開くことになりました。集まる者県下の教育者六百人実に盛大な研究会で白沢小学校未曾有(みぞう)の出来ごとでした」(抜粋。原文のまま)と記されています。
しかし、この自由教育は注目を浴びる一方で規範的自由を履き違えているとの批判も多く、昭和に入ると、次第に自由教育を修正した「自発的学習態度」を育成しながら継承され県内に広まっていくようになったとのことです。
白沢小の児童たちは、こうした伝統を受け継ぎ、素晴らしい環境の中で伸び伸びと学んでいます。
現存する白沢小の門柱
まちづくり情報紙かわち 第54号
(平成28年3月発行)より
白沢町 永井光二