今もカイシャの煙がたなびきます
夕餉(ゆうげ)の支度(したく)の煙が幾筋も立ち上る長屋風の建物がたくさん並んで いました。
薄い壁一枚のお隣で味噌・醤油の貸し借りが常だった連帯感の強いお隣り同士でした。
白澤小学校から帰り、会社の大浴場に無邪気に入った子供のころを思い出します。
岡本駅から石炭を積んだ列車が引き込み線をゆっくりと運行され、白沢街道の踏切を通って会社に入って行きました。
会社の煙突からのぼる煙は、国道四号線の氏家あたりからも遠く確認できたそうです。
近くに数軒のお店があり、とくに柳田商店で刺身を目の前で拵えてくれたのを今でも幼な心に焼き付いています。
あの包丁さばきが見事だったと懐かしい思い出です。
会社お抱えの医院があり、治療で助けられたことが多かったと思います。
私の家の親も、周りの家の大人たちもみんな『高崎製紙』に働いていたものです。
いわゆる社宅に育った思い出が懐かしく、日に何度かの会社のポーの音(サイレン)で時刻を知り、今では埋め立てられて跡形もない田、川、湧水や池があり、夏には蛍も飛び交う静かな地域でした。
会社主催で行われた家族総出の運動会のグラウンドもすでにありません。
それから、時代は流れ、長屋風の社宅もすっかり姿は消えて、この地域は造成され「高崎ハイツ」と名がかわり、上下水道が完備され、路地には水銀灯が明るく点された、いち早い住宅団地となりました。
隣接し清澄団地も造成され、次第に大きな地域になってきました。
引き込み線は「ふれあい通り」となり、石炭は重油に代わり、煙突の煙も白く、目立たなくなりました。
会社も現在「王子板紙」に変わり、懐かしい「板東運輸」「高崎産業」の名もすでにありません。
昭和三〇年四月に自治会が組織され、初代自治会長には岡安蔵造氏が就き、現在は第二十六代目となっています。
自治会公民館ができた当時に婦人部の皆さんが植樹した桜が毎年きれいな春来を告げています。
(平成19年7月20日発行)より