元和5年(1619)10月本多上野介正純が小山城より宇都宮城主となったので、正純は着任と同時に直ちに宇都宮城廓及び城下町の大改革を断行した。
これらに使う御用材を北部山間地区より運ぶた上田原村の西岸今里地内西鬼怒より分流し、田原・古里・豊郷の各地区を流れて城下の田川に合流する水路を開削した。
当時(元和6年)の川幅は九尺、新筏川とも呼ばれた。
後、寛文8年(1668)秋の頃城主松平下総守が大改修を行って川幅を広げ、北方村々からの年貢米の運搬に利用し、併せて水田の灌漑にも大いに役立て、一石二鳥の効果をあげた。
そのため、この堀を”御用川”と名づけられた。
河内町誌より
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