昭和63年7月、文化財調査委員会等の研修会が旧河内町で開催され、県内から約二百名が集りました。
この時のテーマの一つとし「天棚」が取りあげられ、当申内の天棚を33年ぶりに組み立て展示いたしました。
永見東一氏、相良伊一氏、田崎熊重氏の三囃子方による天祭囃子が演奏され、当時の新聞に大きく報道されました。
この研修会は旧宇都宮市や旧河内町の屋台・天棚調査に大きな影響を与えたと思います。
天棚の彫物は、牡丹に唐獅子・向拝柱隠しの龍・脇障子の松に鷹・高欄に這う龍など、名工の作と思われます。
組み立てに携わった地元の方々の話では、製作年や作者を示す墨書は見当らなかったとのことですが、彫物などから、江戸時代末期の天保・弘化年代の可能性が高いと思います。
作者の意志か地元の希望か分かりませんが、すばらしい屋台・天棚でも無名のものは他にも多く見受けられます。
旧部天棚(彫刻のみ)
その昔天災除けと五穀豊穣、そして村内安全などを祈願するために作られた天棚も、敗戦と共に神仏に頼る信仰心もうすれ、さらに気象科学の進歩とともにその用は終わり、倉庫に入ったまま傷んでしまった天棚は多くありました。
申内南部の旧部天棚もその1つで、以前古老より聞いた話によると、屋根や柱などの天棚本体は、傷みがひどいなどの理由から戦後に処分され、彫刻は地域の人に分けられて、個人の所有物となっているそうです。
後になって残念がる声も聞こえましたが、これも時代の流れかもしれません。
彫刻から推測すると、その種類大きさなど近隣地区の天棚に似ており、同江戸時代末期ごろの作りかと思われますが、年代作者名などの記録はなく詳しいことは分かりません。
一説によると「当天棚は元禄時代、有志の浄財により作られた」とも言われますが、事実とすると大変古く、他地区の天棚より100年ちかく遡ることになり、疑問が残ります。
現存する彫物は登り龍、下り龍、唐獅子、波にうさぎ、松に鶴など多種にわたり、すばらしい天棚であったと推測されます。
旧部天棚(彫刻のみ)