室町時代に編集された義経記と言う軍記物語の中に、奥州藤原氏に身を寄せていた義経が頼朝の挙兵に駆け付ける途中、下ヶ橋の養膳寺付近で「馬を休めた」と書かれています。
その物語には、喜連川と下ヶ橋そして宇都宮が記されていますが、今となっては正確な位置は通路(とおりみち)も解りませんが、さくら市の伝馬町には義経街道と思われる道があり、勝山城の麓を過ぎて阿久津川と衣川(きぬがわ)を渡った所が下ヶ橋で、養膳寺跡(写真参照)には古い地蔵堂も残っています。
養膳寺跡から集落の共同墓地までの古い道が義経街道と言われていて、その道から西の峰を臨むと峰の上に和尚塚の森木立を臨むことが出来ます。
その和尚塚は下ヶ橋と白沢と長峰の接点近くに在り、義経街道脇の高台から旅人の安全を見守っていたのでしょう、その坂道を登り鬱蒼とした林を通り過ぎ長峰と言う所に出て、やや南下したところに上岡本村に石割塚あり、さらに南下すると下田原清掃工場があります。
工場前の通りから川俣町に伸びる古道が頼朝街道と言われていて、その先の上川俣本田神社沿いには義経街道が現れて、その先の田川に架る「鎌倉橋」を渡ると山本町になります。
山本町には鎌倉坂と頼朝が宿泊した陣屋址と思しき広場があり、さらに進み大曽を経て宇都宮大明神(当時は荒尾崎という所にあった宇都宮神社)に至ったのでしょう。
弱冠 21 歳の義経が、秀衡から差し向けられた佐藤継信・忠信兄弟ら数十騎の兵を率いて、駿河の国まで駆け付け富士川の戦に勝った頼朝と涙の対面をすると、鎌倉方の武将として鵯(ひよどり)越(ごえ)で有名な一の谷の戦で勝利を治め一躍時の人となり、その後は「那須与一」の話で有名な屋島の戦いに続き、「八艘飛び」で知られる壇ノ浦の戦いにも大勝し、京の都で華々しく出世をした為に頼朝の機嫌を損ない、30 歳の若さで衣川の館で自害すると言う儚く悲しい、なんとも室町時代風のロマンに満ちた物語ですが、800 年前の物語に出て来る下ヶ橋の養謄寺、上岡本村の石割塚そして田川に架る鎌倉橋など、なんともロマンあふれる貴重な歴史遺産ではないでしょうか。
アフターコロナには体力維持とロマンを求め、身近な所にある歴史散歩などは如何でしょうか。
白沢町 住 吉 和 夫
養膳寺から望む和尚塚の森木立
西下ヶ橋の養膳寺と地蔵堂
地域情報紙かわち 第71号
(令和2年7月発行)より