現在の万年橋
奥州街道白沢宿、北の入口に九郷半橋がある。この下流、約500mの所に万年橋とよばれ、長さ20mに近い自動車の通れる橋がかけてあります。
江戸時代の中頃までは、この橋はなかったので、上岡本村の人たちは鬼怒川沿岸の馬草刈場や、川向こうの畑地に行くには浅瀬を越えなければなりませんでした。そこで村人が相談の結果、この浅瀬に土橋をかけることにしました。村中総出で当時の作業としては大変なことでした。
地図
やがて見事に土橋は完成し、人や馬の通行が容易になり祝賀会の席上、組頭によって橋の名がつけられました。この橋の下には当時たくさんのゼニガメが住んでしたことから、中国の故事にちなんで「鶴は千年、亀は万年」を引用し、亀が住む流れの上にあるので「万年橋」と名付けられました。明治の中頃までカメがたくさんいたそうですが、現在は絶えております。
橋の川向うは大正5年(1916)畑地を整理し水田とし現在にいたっています。大正・昭和の前期は板橋となり、太平洋戦争後の昭和28年(1953)5月、村の補助を受けコンクリート造りになりました。現在では白沢から鬼怒川・東岡本方面に通じる重要な橋となっています。
(つづく)
昭和60年(1985)11月20日 第190号掲載
白沢宿今昔(48) 万年橋とカッパの恩返し(2)
江戸時代の中頃、上岡本村の九郷半川にかけられた万年橋は、農作業などにたいへん便利になりました。
この橋のすぐ上流は浅瀬で急流でしたが、農馬の洗場になっていました。この急流で毎年一人や二人の子どもが、川流れになったので、だれ言うとなく「万年橋の下にカッパの親子が住んでいる。」と、噂がたちました。
ある日の夕暮れ時、一人の農夫がこの洗場に馬を引き入れ洗っていると、農夫の知らない間に、一匹のカッパが馬の尻尾に、しっかりつかまりました。それとは知らず農夫は馬を引いて家に帰り、馬小屋に入れますと、カッパは小屋の中を走り回りました。逃げ場を失なったカッパは、馬桶(まおけ)の中に体をひそめました。騒ぎでかけつけた家族に捕りおさえられましたが、よく見ると子どものカッパでした。
かわいそうに思った農夫は、カッパを万年橋の下に放してやりました。
それから後は不思議と、このあたりでは子どもの川流れがなくなりました。
昭和60年(1985)12月20日 第191号掲載