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かわちの文化財
・岡本家住宅・長屋門
母屋が南に面して建ち、中央に玄関、東側に客間座敷を配し、その西北に寝室や馬屋・勝手・風呂場を設け、正面の玄関奥と裏の寝室が屋根続きとなっています。勝手・土間も広く馬屋に続いて、風呂場がありましたが、今は、少し改造されて背面に置かれています。
建てられた年代ははっきりしませんが、正徳(しょうとく)4年(1714)の護摩札が打ち付けられてあり、それ以前のものとも考えられる江戸時代中期の建築です。
この建物の特徴は、茅葺き屋根の2棟が並んだ形で、軒付下には色違いに稲・麦わらを段違いに重ね、小屋梁は細い曲材を用いています。玄関・客間・座敷等建てられた時のままでよく保存され、長押(なげし)の釘隠し等もおもしろいものです。ただし、屋根の煙出しは後世のものと思われます。
長屋門は県内に共通した切妻造りのもので、同年代のものとして貴重な建造物です。
指定番号 国建第1678号
指定年月日 昭和43年4月25日
所在地 下岡本1624
所有者・管理者 岡本 郁男
・熊野神社本殿(くまのじんじゃほんでん)
神社の創建は古く元暦(げんりゃく)2年(1185年)とされています。
本殿は江戸時代末期の文政12年(1829年)に作製されたもので、当地方として稀に見る春日造りの豪華な建造物です。
全体に彫刻があり、右羽目板部分には母子像があり授乳の様子と安産の象徴とされる犬の像、左羽目板部分には鶴・亀の像、脇障子には古代中国の賢人像、長押(なげし)上部には四方に十二支、正面に龍、虹梁(こうりょう)上部に牡丹、軒下部に菊、各柱上部には獅子の彫物が精緻にほどこされています。
保存状態は極めて良好で、貴重な文化財といえるため指定文化財として後世に伝えたいものです。
※ 彫刻師、高田體助 金重(たかだたいすけかねなり)
彫物裏面墨書などによると、左甚五郎11代目を名乗った「左 杢齋(もくさい)」 (初代 礒邉義兵衛)の門人で、中里免の内村(現上河内町)の人で名 を伊左衛門、伊兵衛、後藤金重、體助などと変えて、文政年間(1818〜 1830)を中心に活躍し、河内町内始め、町外の神社や天棚などに作品を 残している名工の1人です。白沢宿に住んでいたことも記録にあります。
指定番号 町18号
指定年月日 平成14年5月24日
所在地 熊野神社境内
所有者・管理者 叶谷自治会
・紙本淡彩(しほんたんさい)観音図(かんのんず)
荒井寛方(あらいかんぽう) 作
寛方後期の円熟時代の優品です。涼しく下方に向けられた眼差し、小さめの軽く触れ合った唇などの行き届いた描写が観音像を決定しています。
波打つ断続的描線も寛方面の魅力です。
指定番号 県280号
指定年月日 昭和46年5月14日
所在地 下岡本1642
所有者・管理者 岡本 郁男
・紙本著色(しほんちゃくしょく)釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)
荒井寛方(あらいかんぽう) 作
中尊(ちゅうそん)は釈迦如来であり、両側に立つのは脇侍(きょうじ)ではなく奉讃(ほうさん)者です。如来の足裏に描かれた輪宝(ちゃくら)が注目されます。古代インドにおける王に対する尊称をチャクラバルチンといい、仏教の教儀における仏陀をこの王の位になぞれえてこう呼び、彫刻においては、輪宝を足裏に刻して釈迦を現すことになったといわれています。
指定番号 県281号
指定年月日 昭和46年5月14日
所在地 白沢1886
所有者・管理者 明星院
・絹本著色(けんぽんちゃくしょく)両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず)(金剛界・胎蔵界(こんごうかい・たいぞうかい)
作者不詳
この曼荼羅は、天文(てんもん)5年(1536)、西方寺の秀継(ひでつぐ)が宇都宮金剛定寺(こんごうじょうじ)の法印(ほういん)亮界阿じゃ梨(りょうかいあじゃり)から両部潅頂(りょうぶかんじょう)を受けた時に用いられたものと言われています。
西方寺は真言宗智山派(ちざんは)の名刹(めいさつ)で永享(えいきょう)10年(1438)醍醐松橋無量寿院秀誉(だいごしょうきょうむりょうじゅいんしゅうほう)の創建と伝えられています。
※法印:最高僧位
※阿じゃ梨:師範たるべき高僧の称
※両部:金剛界・胎蔵界をいう
※潅頂:密教で法を授かる儀式のこと
指定番号 県461号
指定年月日 昭和55年2月6日
所在地 上田原1195
所有者・管理者 西方寺
・銅像 慧光童子立像(えこうどうじりゅうぞう)
慧光童子は不動明王の眷属(けんぞく)である八大童子のひとつです。
像高:21.5cm
重量:1.6kg
背面の陰刻銘:嘉歴(かれき)二(丁卯八月□日)願主日城坊信尊(がんしゅにちじょうぼうしんそん)
※嘉歴2年(1327)鎌倉時代
指定番号 県211号
指定年月日 昭和42年4月7日
所在地 下田原1073
所有者・管理者 田中 智男
・木造 如来坐像(にょらいざぞう) (伝薬師如来座像)
下田原にあった真言宗密興寺(みっこうじ)本尊として、南北朝時代の至徳(しどく)2年(1385)に製作された釈迦如来坐像と伝えられます。
この像は、螺髪(らほつ)の上に天冠台(てんかんだい)があるので、頭部に宝冠をいただいていたと思われます。また、禅定印(ぜんじょういん)を結ぶ手首先と後背(こうはい)は他像からの転用と、玉眼(ぎょくがん)は後代にはめ込まれたものとみられます。この時代の宝冠をいただく様式の如来坐像はいずれも阿弥陀如来像であることから、本像ももともとは阿弥陀の定印を結ぶ阿弥陀如来像であったと思われます。
頭の内部には以下の墨書が印されています。
密興寺本尊
広隆寺(こうりゅうじ)大仏師(だいぶっし)大蔵卿法眼真慶(おおくらきょうほうがんしんけい)作
至徳二年乙丑十月八日
※像高:68.5cm
※本像の作風は14世紀後半、福島県会津地方に作例を残す仏師乗円(じょうえん)とその一派に通ずるところがある。
※大蔵卿:中世においては仏師の肩書き。この銘記は本像が初見。
指定番号 県651号
指定年月日 平成8年1月16日
所在地 下田原2150
所有者・管理者 薬師堂護持会
・懸仏(かけぼとけ)
懸仏は御正体(みしょうたい)といわれ、神の本体の義で神を仏像で現したもので、本地垂迹(すいじゃく)説に由来するもので日本古来の神道の神が本地仏を現わす我が国独特の形式で、明治初年まで続く神仏習合(しゅうごう)の思想の表現とされています。
県内でも142点に及ぶ点数は多量で、いずれも同図柄ではあるが信者の手作りであるために1枚1枚は同じものではありません。
社殿や堂宇(どうう)に懸けて供養したものと考えられます。
指定番号 町19号
指定年月日 平成14年5月24日
所在地 白山神社境内
所有者・管理者 逆面自治会
・大般若波羅密多経(だいいはんにゃはらみたきょう)
大般若波羅密多経は逆面に弥勒寺を建てた修験者が安永年間から永年かかってもとめられたもので、その1部は近在近郷の信者の寄付によるものと考えられ記録があります。
修験者の子孫である斉藤家に代々保管され、毎年2月15日(釈迦涅槃(ねはん)日)に村人が斉藤家に集まり転読会が行なわれていたが終戦後逆面自治会に寄贈されました。
その後も毎年自治会の公民館において僧侶の読経とともに転読会を行い今日に至っており、600巻に及ぶ経典は貴重なものです。
指定番号 町11号
指定年月日 平成3年12月6日
所在地 白山神社境内
所有者・管理者 逆面自治会
・宇都宮領岡本村太閤検地帳(うつのみやりょうおかもとむらたいこうけんちちょう)
文禄4年(1595)の秋から冬にかけて太閤検地が宇都宮氏の領内で行なわれました。
太閤検地は太閤豊臣秀吉の主導のもとで行なわれた検地をさし、村ごとに一筆ごとの耕地の等級、面積、生産高、耕作者を確定し、これらを検地帳に登録しました。
豊臣秀吉に臣従し、豊臣大名となった宇都宮氏も領内での太閤検地が実施され、岡本村(河内町)の場合は検地奉行として浅野長政の家臣、石井三承。続いて宇都宮氏の家臣、菊地松音軒らがあたったと思われ、検地帳の末尾に名前と花押が記されています。
岡本村の場合は規模が大きかったため二冊分となっており、当時の岡本村の耕地の様子が浮き彫りになりました。
また、岡本村検地帳は現存するものでも原本が残ったものは数少なく貴重なもので、近世に下岡本村の庄屋を務めた五月女氏に伝えられたものです。
指定番号 町16号
指定年月日 平成11年5月18日
所在地 栃木県立文書館
所有者・管理者 五月女 裕久彦
・白沢甲部彫刻屋台(しらさわこうぶちょうこくやたい)
製作年代:天保(てんぽう)4年(1833)前後で製作(彫物の裏の墨書から)
作者:彫刻ー富田宿(とみたじゅく)・磯部儀兵衛(いそべぎべえ)(三代目・敬信(たかのぶ)ほか
明治3年の手直しー晃陽住(こうようじゅう) 塗師=坂本虎吉 かざり師=手塚卯之吉
由来:鹿沼より購入と伝えられている
板組や彫刻に墨書された年号から、天保年間に製作されたこの時代の一般的な形式の黒漆塗彩色彫刻屋台(くろうるしぬりさいしょくちょうこくやたい)です。明治3年に一度手直しされていることから、製作当時は白木屋台であったことも考えられます。
鬼板(おにいた)と懸魚(げぎょ)には獅子、正面飾柱には龍の彫刻が施されていますが、これらの眼にはハメ込みのガラス玉が用いられており、これは全国的に見ても珍しい用例であると言われています。
また、全部で12枚になる外障子・内障子には、12支の彫刻が施されており、それがこの屋台の特徴ともなっています。
※鬼板=屋根両頂上端の彫物
※懸魚=鬼板の下の屋根彫物
指定番号 町7号
指定年月日 平成2年12月6日
所在地 北野神社境内
所有者・管理者 白沢甲部自治会
・白沢南彫刻屋台(しらさわみなみちょうこくやたい)
製作年代:文化13年(1816)着工 文政3年(1820)完成
白木彫刻は明治8年
作者:彫刻−富田宿(とみたじゅく)・磯部儀兵衛(いそべぎべえ)(初代・杢斎(もくさい))・二代目儀兵衛(隆信(たかのぶ))・隆信の弟 直次郎・喜重(のぶしげ)
白木彫刻−磯部儀兵衛(三代目・敬信
塗師−鹿沼田町 村田屋市五郎
かざり師−石橋町 安次郎
大工−鹿沼下横町 忠次郎
由来:明治6年 鹿沼麻苧(あさう)町より購入
大型で重厚な、黒漆塗彩色彫刻屋台(くろうるしぬりさいしき)ですが、明治6年に白沢南で購入後に正面柱、外欄間(らんま)、内・外障子に白木彫刻を付加しているので、特異な外見の屋台となっています。
彩色彫刻は、その塗りの状況などから何代かに分けて製作されたものと思われます。これらの彫刻の中でも脇障子(わきしょうじ)に施された鉄線花(てっせんか)の透かし彫りは、日光東照宮の諸彫刻と同レベルの完成度の高さであると評価されています。
この屋台はもともと鹿沼新町(現:麻苧町)で白木屋台として製作され、すぐに塗屋台となったもので、4匹の金龍の彫刻がありましたが、白沢南で購入の際はずされ、麻苧町の屋台[安政4年(1858)完成]の高欄(こうらん)に取り付けられています。
指定番号 町8号
指定年月日 平成2年12月6日
所在地 須賀神社境内
所有者・管理者 白沢南自治会
・東下ケ橋天棚(ひがしさげはしてんたな)
重厚な白木彫刻天棚です。製作費が約350両前後であったと伝えられており、その豪華さを伺い知ることができます。
天棚とは太陽信仰に根ざす農耕の祭り「天祭(てんさい)」に使用されるもので、江戸中期頃より作られるようになり、幕末・明治初期に最も盛んに作られました。
指定番号 町9号
指定年月日 平成3年3月30日
所在地 白馬神社境内
所有者・管理者 東下ケ橋自治会
・西下ケ橋彫刻屋台(にしさげはしちょうこくやたい)
江戸末期から明治初期の頃に製作されたと推定される黒漆塗彩色彫刻屋台(くろうるしぬりさいしき)です。
彫刻は神山政五郎のものと伝えられ、柱はリスとブドウ、障子回りは桜を主体とした花木、外欄間(らんま)は菊、高欄下は板書きの波でコンパクトにまとめられているためか側面は華々しさはありません。
正面の蹴込(けこみ)の獅子が戯れる透かし彫りの玉などに、彫師の技術の高さを見ることができますし、鬼板(おにいた)と懸魚(げぎょ)の龍は華麗なものとなっています。
※蹴込=正面の内障子下部の彫刻
指定番号 町10号
指定年月日 平成3年3月30日
所在地 八坂神社境内
所有者・管理者 西下ケ橋自治会
・東組彫刻屋台(ひがしくみちょうこくやたい)
東組彫刻屋台は弘化2年(西暦1845)に宇都宮の本郷町で竣工 もしくは購入された屋台で、その後転々とし大正10年に東組が購入するに至ったと思われます。
黒漆塗彩色彫刻屋台(くろうるしぬりさいしき)で木箱に本郷町(現小幡町、泉町)の記載があり、龍や牡丹の彫刻に見られる特徴から宇都宮を中心に江戸時代末期に名前の見える高田系の作品と推測されます。
指定番号 町12号
指定免月日 平成4年7月1日
所在地 琴平神社境内
所有者・管理者 東組自治会
・西組彫刻屋台(にしくみちょうこくやたい)
西組彫刻屋台は、江戸時代末期(西暦1850年代、嘉永〜安政年間)の作と思われ、作者については不詳です。
また、当時の山車はもっと丈が高く作られ、西組の大工棟梁の戸村由太郎氏の手により骨組みが作り変えられ、現在の山車の姿になっています。
彫刻の部分については、下田原源武(斉藤武男氏)が薬師堂のモクレンの大木を利用して2年にわたり彫りあげた力作です。
指定番号 町13号
指定年月日 平成4年12月10日
所在地 西組公民館
所有者・管理者 西組自治会
・天王原彫刻屋台(てんのうはらちょうこくやたい)
天王原彫刻屋台は、大正7年(西暦1918年)に天王原自治会の大工・加藤清次氏と上組自治会の大工・湯沢長 吉氏の手により製作されたもので、彫刻部分の正面鬼板及び懸魚の龍、裏面鬼板及び懸魚の牡丹と雉については、後日(文政年間= 1820年代)組入れたものと思われます。
地元では旧暦6月、八坂神社の例祭に地域住民の安泰を祈願し奉納しています。
指定番号 町14号
指定年月日 平成4年12月10日
所在地 天王原地内
所有者・管理者 天王原自治会
・上組天棚(かみぐみてんたな)
突出し型彫刻天棚で二階部彩色、一階部白木で作成されています。作成年代は彫刻裏墨書からみると文政4年(1821年)から5年位かかり作成されました。
彫刻の種類は鬼板が牡丹に唐獅子、懸魚が菊に山鵲、びわ板に鶴、欄間正面に龍、側面に波に菊、脇障子に孔雀が彫られていて貴重価値のある天棚です。
※天棚とは太陽信仰に根ざす農耕の祭り「天祭」に使用されるもので、江戸中期頃よりつくられるようになり、幕末・明治初期に最も盛んに作られました。
指定番号 町17号
指定年月日 平成13年5月23日
所在地 上組公民館
所有者・管理者 上組自治会
・古田天棚(ふるたてんたな)
大正8年7月(1919年)に羽黒村冬室(現上河内町)より購入、と同時に地元にあった古い天棚の部材の一部(二階、脇障子の彫物など)を使い改築を行ないました。その他の彫物は創立当時のもので、後部を除く三方が、唐獅子牡丹、竜、花鳥など豪華な彫物で飾られています。
作者のうち、大工は不明ですが彫物師は刻銘から江戸彫物、後藤方を名乗った、富田(大平町)の彫工、礒邉一族中、最も名工と言われる分家三代目、礒邉義兵衛敬信(字名 松需)の作です。
また、名はありませんが正面二階の鬼板と懸魚(げぎょ)は作風から、同,礒邉系で後藤正秀二代目、後藤常吉と思われます。
大正8〜9年の改築作者名は刻銘から下記のとおりです。
請負塗師 宇都宮旭町 川鍋 權五郎
柴田 松 寿
大工棟梁 宇都宮 梶 瀧二郎
指定番号 町20号
指定年月日 平成14年5月24日
所在地 古田公民館
所有者・管理者 古田自治会
・岡本家家伝薬関係遺品一式(おかもとけかでんやくかんけいいひんいっしき)
岡本家の言い伝えによると、享保年間(1716〜1735)に延寿救命丸(えんじゅきゅうめいがん)を主軸とする家伝薬を次々に製造していました。最盛期の文化・文政期(1804〜1829)には救命丸・退邪散(たいじゃさん)・理中丸(りちゅうがん)・全治膏(ぜんちこう)など薬種20種類に及び、販路も広く下野(栃木県)全域から常陸(茨城県)へ伸びていたといわれています。
この家伝薬の製造は、第2次世界大戦を契機に廃業されましたが、これら122点に及ぶ資料は、かつての本県の民間医療史研究のための貴重な資料となっています。
昭和46年5月14日指定 108点 | ||
品 名 | 点 数 | 内 訳 |
看板 | 2 | 延寿救命丸・免許売薬営業 |
朱印 | 9 | 唐直伝・本家・その他 |
薬用袋 | 5 | 五神丸・退邪散・理中丸・その他 |
家伝薬効能紙 | 5 | 順気湯・一角丸・その他 |
家伝薬版木 | 24 | 万金丹・延寿救命丸効能書・その他 |
家伝薬関係書籍・古文書 | 54 | 御薬調合帳・万病回春・新増家伝預薬集・その他 |
薬用さじ | 1 | |
薬こねうす | 1 | |
薬用棒計り | 3 | |
水さし | 1 | |
水入れやかん | 1 | |
ヤゲン | 1 | |
乳ばち | 1 | |
昭和54年8月28日追加指定 14点 | ||
品 名 | 点 数 | 内 訳 |
家伝薬広告版木 | 12 | 延寿救命丸・五紙丸商標・その他 |
家伝薬関係書籍 | 2 | 医方集解・医療衆方規矩 |
指定番号 県4号
指定年月日 昭和46年5月14日(108点)
昭和54年8月28日(14点)
所在地 下岡本1624
所有者・管理者 岡本 郁男
・祈祷札版木(きとうふだはんぎ)(2枚)
この版木2枚は、明治3年に廃寺になった真言宗寺院養膳寺(ようぜんじ)にあった安産子育の祈祷札の一部です
この寺の最盛期には旧暦に1月と10月の24日に地蔵会(じぞうえ)が催され、この時この版木で刷った地蔵版画が「オスガタ」と呼ばれ特別に加持護摩(かじごま)を依頼した信者に授けられたといわれます。
大きい版木で刷られたものは掛軸(写真)として、小さい方はそのまま信者に授与されました。このオスガタを妊産婦が枕元に飾ると安産間違いなしという俗言が近隣一帯に流布しています。この大小2枚の版木には、地蔵の絵姿と真言宗本山の京都智積院(ちじゃくいん)権僧正頼如(ごんのそうじょうらいにょ)の祈願文が彫られています。
この版木は本県の民間信仰の仏として最もポピュラーな地蔵に対する一般庶民の信仰を知る重要な手がかりとなる資料であると同時に、美術的に見ても素晴らしいものがあり、現在、栃木県立博物館に寄託され展示されています。
指定番号 県5号
指定年月日 昭和47年1月21日
所在地 県立博物館所蔵
所有者・管理者 西下ケ橋自治会
・天下一関白流神獅子(てんかいちかんぱくりゅうかみしし) (逆面獅子舞(さかづらししまい))
この獅子舞は、逆面に鎮座する白山神社に奉納するものです。
逆面は慶長(けいちょう)5年(1600)11月、家康公の命により宇都宮大明神の御神領(ごしんりょう)に寄進されて諸役御免(しょえきごめん)の恩典にあずかったので、地元の人たちはその感謝の意を獅子舞で奉仕することで現してきました。
戦時中に一時衰退はありましたが、400年近い歴史を経て、地元の人たちの手により受け継がれています。
指定番号 町2号
指定年月日 昭和45年4月1日
所在地 白山神社境内
所有者・管理者 逆面自治会 逆面獅子舞愛好会
・岡本城跡(おかもとじょうあと)
中岡本根古屋(ねごや)にある鬼怒川右岸段丘を利用した平山城(ひらやまじろ)で、南北朝時代に岡本信濃守富高(しなのかみとみたか)が築造したといわれ、宇都宮氏の支城として宇都宮東部の守りについていましたが、慶長2年(1597)宇都宮氏滅亡とともに廃城となりました。現在、本丸は土塁壕(どるいごう)などよく保存されています。
なお、根古屋という地名は、武士たちの居住地、すなわち寝小屋(ねごや)があったことに由来しています。
指定番号 町3号
指定年月日 昭和45年4月1日
所在地 中岡本根古屋台
所有者・管理者 橋田治子他
・逆面城跡(さかづらじょうあと)
逆面自治会桜井家の裏山一帯にかけて構築された城で、東部は山田川の流れと30mの急崖という天然の防壁に守られた山城です。
宇都宮氏の家臣の逆面氏の城で、室町期の築城であると推定されており、空濠(からぼり)・土塁(どるい)がよく残されています。
指定番号 町4号
指定年月日 昭和45年4月1日
所在地 逆面地区
所有者・管理者 桜井一美他
・高龗神社古墳(たかおじんじゃこふん)
宇都宮市との境に鎮座する高龗神社の杜となっており、現在はこの一基だけですが、この一帯は川沿(かわぞい)古墳群と呼ばれ大小の墳丘(ふんきゅう)が点在していました。
この古墳は直径約30mの円墳で、6世紀半ばから後半に構築されたものと推定されます。封土(ふうど)は西側の大半が旧東北本線のために削り取られてしまっているため、一見前方後円墳のように見えます。
なお、この付近にあった「大塚新田古墳(おおつかしんでんこふん)」からは、次の馬具などの貴重な埋蔵品が出土しており、その一部は東京国立博物館に収蔵されています。
武器:鞍橋残欠(くらはねざんけつ)1・輪鐙(わあぶみ)1・はみ残欠 2・雲珠(うず)残欠 1
馬具:刀子(とうず)身残欠 3・鐔(つば)1・刀身 3・鉄鏃(てつぞく)残欠 1
工具:斧頭 2
服飾品:銀環 4
指定番号 町5号
指定年月日 昭和59年6月1日
所在地 大塚85
所有者・管理者 大塚自治会
・高山古墳(たかやまこふん)
宇都宮丘陵の尾根にある古墳で、河内町と宇都宮市の境界に接しています。封土がなくなっていて、玄室の天井石が外された石室が、尾根の端に残っています。
周辺には顕著な墳丘が見当たらないが、尾根筋にはこの他にも古墳が分布していると思われます。
高山古墳の築造された時期については、出土遺物が不明のために直接判断する資料がありませんが、おおよその時期は6世紀前半の中程から中頃に築造されたと思われます。
指定番号 町15号
指定年月日 平成11年5月18日
所在地 下田原地内
所有者・管理者 渡辺 平良
・下ヶ橋の三ツ股カヤ(さげはしのみつまたかや)
推定樹齢:500余年
樹 高:18.5m
目通周囲:5.1m
枝 張:東西16m 南北16m
東下ケ橋自治会の郷間家の母屋の北側にあるカヤで、地上1.5mのところで3本に大きく枝分かれしているため「みつまたかや」と呼ばれています。
樹高はありませんが全体の姿が見事であり、樹勢も盛んです。
なお、伝承によると享保8年(1723)に起きた天然の堰(せき)の決壊による鬼怒川の大洪水「五十里(いかり)洪水」の時に、近在の十数人がこの木に登り難を逃れたと伝えられています。
指定番号 県53号
指定年月日 昭和46年5月14日
所在地 下ケ橋806
所有者・管理者 郷間 和多二
・立伏のツバキ(りゅうぶくのつばき)
推定樹齢:450余年
樹 高:8m
胸高周囲:2m
枝 張:東西8m 南北10.4m
立伏の斎藤家の屋敷跡にある、濃赤色一重のヤブツバキで、南側の水田に面している部分のみが開けているため、枝は主として南側に向かい張り出しています。
指定番号 県59号
指定年月日 昭和47年1月21日
所在地 立伏365
所有者・管理者 斎藤 大
・しだれこうやまき
推定樹齢:200余年
樹 高:19m
目通周囲:1.85m
枝 張:東西18m 南北8m
北組南部の五月女家前庭にある枝垂(しだれ)性の高野槙(こうやまき)です。高野槙は暖地性の常緑樹で、本県には自生はしていません。
この高野槙は主幹中央部付近から2つに枝分かれしている大木で、枝のほとんどが枝垂ているため、全国的に見ても非常に珍しいものです。
指定番号 県66号
指定年月日 昭和52年7月29日
所在地 下岡本1404
所有者・管理者 五月女 裕久彦
・逆井戸
奈良時代の僧道鏡が、この井戸で水を飲もうとしたところ、顔が逆さに映っていたので、「この地を逆面と呼べ」と怒って立ち去ったという伝説があります。
・大えのき
白沢宿の南入口の右側にあり、樹齢は定かではありませんが、胸高周りは3m程あります。
古老によれば、左側にも植えてあり、入宿する旅人を2本のえのきが出迎えていたそうです。
・白沢宿
白沢宿の南入口の右側にあり、樹齢は定かではありませんが、胸高周りは3m程あります。
古老によれば、左側にも植えてあり、入宿する旅人を2本のえのきが出迎えていたそうです。